連れて行く、それだけだ
「じいさん、隠れてろ」
ハルは低く言って、戸の隙間から外を窺った。薄闇の路地に、動くものは見当たらない。痩せた野良犬が一匹、倒れた木箱の陰からこちらを一瞥し、迷惑そうに走り去っていくだけだった。
「……犬、かよ」
詰めていた息を吐き出すと、ライグの喉からも同じ音が漏れた。
「脅かしやがって」ミラが小刀の柄から手を離しながら舌打ちする。「じいさん、大丈夫かよ」
「儂は平気じゃ」隅で膝を抱えていたオルグが手を振った。それから、ふと真顔になる。「――だが兄ちゃん。今の顔、いい面をしとらんかったわい」
「……別に、なんでもねえよ」ハルは素っ気なく言って、オルグへ一瞬だけ目をやった。それ以上は続けなかった。
「ヴェインより上がいる」という一言が、耳の奥にまだ張り付いて離れない。
ライグはそれ以上何も知らないの一点張りだった。震える手で酒瓶を呷るだけの男から、今夜これ以上引き出せるものはなさそうだった。ハルとミラはオルグを物置に残し、すっかり暮れた裏路地を宿へと戻った。
疲れた足を引きずって宿の裏木戸に着いた時、ハルの足が止まった。
閂のはずの木戸が、わずかに開いている。押した覚えのない隙間から、蝋燭の灯りが漏れていた。
「……ミラ」
短く名を呼ぶと、ミラも無言で頷き、小刀の柄に手をかけた。息を殺して戸を押し開ける。
狭い部屋の中、丁寧に折り目のついた灰色の上着の男が、まるで自分の部屋であるかのように寝台の縁に腰掛けていた。剣も荷物も提げない、素手の男。何度目かは、もう数える気にもならない。
「お二人とも、随分と忙しくしていらっしゃる」使者は、いつもの抑揚のない丁寧語で口を開いた。「灰塚にまで足をお運びとは」
「てめえ、勝手に人の部屋に……」ハルは戸口で身構えたまま吐き捨てた。「証言はもう出し切っただろうが。今更何しに来た」
「証言の件では、ございません」使者は座ったまま、表情も変えずに言った。「当主は、ハル殿への申し出を、まだ取り下げてはおりません」
「……はっ」ハルは短く笑った。「秤の手を差し出せって話かよ。飼い犬にでもなれってか」
「飼い犬、とは思っておりません」使者の声には、相変わらず何の温度もなかった。「当主は、正当な価値をお支払いすると申し上げております。この上なく、誠実な申し出のつもりです」
「知るかよ」ハルは低く言った。屋敷の庭先で、値踏みするような視線に晒されたあの数分間が、嫌でも頭の隅を掠める。荷物みたいに重さを量られ、道具として値をつけられた屈辱は、まだ腹の底に居座ったままだった。「道具扱いされて庭で試された恨みを、まだ返してねえんだ。誠実だと思ってんなら、頭のネジが緩んでんぞ」
使者はしばし沈黙した。反論も、動揺もない。ただ、静かに一つ頷いただけだった。
「――賢明とは言えない選択です」
その一言と同時に、部屋の奥、衣装棚の陰と寝台の下から気配が動いた。
合図だ、とハルが悟った瞬間、狭い室内の暗がりから覆面の男たちが音もなく現れた。二人、三人――逃げ場のない部屋の中では、路地よりもよほど質が悪い。得物の柄に小さな石のようなものが埋め込まれ、灯りの乏しい室内でも鈍く発光していた。灰塚の壁と、同じ色の光だった。
――今度は部屋の中かよ。私兵、刺客、そして今度は寝床にまで踏み込んでの待ち伏せだ。逃げ場を選ぶ余地すら与えない周到さに、腹の底で舌打ちが鳴ったが、それを噛み締める暇すら、もう残されていなかった。
「――!」
ミラが小刀を抜く間もなく、戸口を塞ぐように立った男の腕に、背後から喉元を締め上げられる。
「ミラ!」
ハルが踏み出そうとした足を、別の男の腕が搦め取った。振り払おうにも、痺れの残る右手ではまともに力が入らない。
「争う必要はございません」使者は、寝台に腰掛けたまま囚われたミラを一瞥もせず、淡々と続けた。「お連れの方は、こちらでお預かりいたします。……ハル殿。あなた一人が、大人しく付いてきてくださるのであれば」
ミラの喉から、掠れた声が漏れる。
「――ハル、逃げ……!」
言い切る前に、覆面の男の腕がその口を塞いだ。ハルは、痺れた右手を握りしめることしかできなかった。




