錆びた紋章
結晶の胎に手を伸ばした瞬間、床が動いた。
いや、床そのものではない。床に張り付くようにして息を潜めていた何かが、一斉に這い出してきたのだ。
「――ハル、下!」
ミラの声と同時に、ハルは掴みかけていた手を引いた。指先を掠めるようにして、灰色の小さな影が跳ねる。膝丈ほどの体高、節だらけの脚が六本、平たい体を地面に這わせるようにして動く変異獣だった。一匹ではない。壁の暗がりから、床の亀裂から、次から次へと湧いて出る。
「……冗談だろ、こんなに」
数えるのを早々に諦めた。十や二十では利かない。結晶の胎を守るように群がり、光を浴びて濁った目を光らせている。
「囲まれてから騒いでも遅いっつの!」ミラが小刀を抜きながら怒鳴った。
背中合わせに構える間もなかった。最初の一匹が飛びついてくる。ハルは反射で右手を伸ばし――その手のひらに触れた瞬間、焼けるような痛みが電流のように走った。痺れて握り込めないはずの右手が、それでも辛うじて「掴む」動作だけはこなす。軽くする。跳ね返すように蹴り上げ、着地の刹那に重さを戻して踏み潰す。
一匹。だがそれだけで、右手の痺れは限界を一段飛び越えた。指の感覚が遠のく。
「……くそったれが」
二匹目が横から飛びかかってくる。今度は掴む余裕がない。左手で払い、体を捻ってやり過ごす。ミラの投じた小刀が三匹目の目を貫き、悲鳴のような甲高い音が広間に反響した。
「一匹ずつなら、まだやれる!」ミラが叫ぶ。
「一匹ずつなら、な!」
だが群れは数で押してくる。掴んで軽くする、それだけでは足りない。当てて重さを戻す一瞬の間に、次の牙が肩を狙ってくる。ハルは奥歯を噛み、震える右手をもう一度伸ばした。前腕まで這い上がる痺れに、視界の端が白く点滅する。
「……お前は平気かよ」息の合間に、それだけ聞いた。
「今更聞くんじゃねえよ!」ミラの声には笑いの余裕もなかったが、まだ止まってはいなかった。
数を減らすたびに、群れは苛立つように結晶の胎の周りで密度を増した。まるで守っているかのように。ハルはその事実に一瞬だけ気を取られ――その隙を、一匹が突いてきた。
肩に鋭い痛みが走る。だが浅い。骨までは届いていない。痛みで意識が逸れかけた分、代わりに右手の感覚が戻ってきたような気さえした。
「……上等だよ、それで最後だ」
ハルは最後の一匹の脚を右手で掴んだ。感覚のほとんど失われた指に、力を振り絞る。軽く、そして――当たる瞬間、根こそぎ重さを戻す。地面ごと叩き潰すような音がして、広間がようやく静かになった。
肩で息をしながら、ハルは右手をだらりと下げた。指先の感覚がほとんど無い。握り込もうとしても、震えるだけでうまく力が入らなかった。
「……終わった、か」
「終わったっつうか、こっちの寿命が縮んだだけだな」ミラが荒い息のまま、それでも軽口を絞り出した。強張った声に、わずかに力が戻っている。
「……お前、肩は平気かよ」ハルは震える右手をそっと下ろしながら、素っ気なく聞いた。柄にもないと分かっていたが、聞かずにはいられなかった。
「引っかかれた程度だ、こんなの」ミラは肩をさすりながら顔をしかめたが、すぐに強がるような笑みを作った。「それより、ハルのその手の方がよっぽど心配だよ」
死骸の山を見渡して、ハルはふと足を止めた。潰れた変異獣の一匹の腹の下、割れた甲殻の隙間から、鈍い金属の光が覗いている。
「……何だ、これ」
左手だけで拾い上げる。錆びついた小型のノミ――採掘に使う道具だ。柄の根元に、焼き印のような紋章が刻まれている。見覚えのある意匠だった。剣の鞘に、屋敷の門に、何度も見せつけられた紋。
「……嘘だろ」ミラが覗き込んで、絶句した。
「ヴェイン家、か」ハルは乾いた声で呟いた。錆びた道具を握る左手に、じわりと力がこもる。「こいつら、ずっと前からここに潜って、何かを掘り出してやがったのかよ」
灰塚の異変も、結晶の胎も、この化け物の群れも――全部、あの澄ました顔の当主の手が、とっくの昔からここに伸びていた証だった。
広間の奥で、結晶の胎がまた一つ、静かに脈打った。




