まだ握れない朝
朝日が差し込んでも、右手の感覚は戻らなかった。
指を開こうとすると、焼け跡をなぞるような鈍い痛みが跳ねる。ハルは寝床の上でその手を陽に透かし見た。指先が微かに震えている以外、何も応えない。まるで他人の手を借りてきたみたいだ、と思った。
「――昨日も言ったろ。あと三日は握るな、って」
隣で身支度を整えていたミラが、振り返りもせずに言った。声には呆れと、隠しきれない小さな苛立ちが混じっている。
「握っちゃいねえよ。開こうとしてるだけだ」
「同じことだっつの」
ハルは苦笑いを浮かべかけて、やめた。笑う元気があるなら動かない手のことなど気にするなという理屈は分かっている。だが休んでいる暇などない――昨日、オルグが息を切らして届けにきた報せが、頭の隅にこびりついたまま消えなかった。灰塚の空に漏れる光。灰塚の主の死骸が消えたまま、気配だけが濃く残っているという話。
「行くのか」ミラが小刀の柄を確かめながら、静かに聞いた。からかいの色はもうそこになかった。
「行かなきゃ、何にも終わらねえだろ」ハルは動かない右手を、動く左手でそっと支えるようにして立ち上がった。「荷の出所も、ギルド中央に繋がるってあの符丁の正体も、灰塚の主が本当に死んだのかどうかも――全部、あそこに繋がってる気がしてならねえ」
「その手で?」
「その手でも、だ」
ミラはしばらくハルの顔を睨むように見ていたが、やがて小さく息を吐いて肩をすくめた。「知るかよ、そこまで言うなら付き合うっつの。あたし一人で行かせる気かよ、坊や」
宿を出ると、通りの端でオルグが待っていた。杖代わりの棒に体重を預け、昨日の慌てぶりが嘘のように落ち着いた顔をしている。
「兄ちゃん、嬢ちゃん。……行く気じゃな」
「止めても無駄だぜ、じいさん」
「止めやせんよ」オルグは首を横に振った。「儂はもう潜らんが……途中までは、付き合ってやる。この歳になっても、脚だけはまだ動くでな」
三人は連れ立って、崩れかけた大通りを抜けていった。オルグは灰塚に近づくにつれ口数を減らし、代わりに何度も空を見上げた。灰塚の方角の雲が、朝だというのに妙に低く、灰色がかって見えた。
「……灰塚だけの話でもなさそうじゃ」オルグがぽつりと漏らした。「近頃、方々の迷宮で似たような話を耳にするでな。……この世のどこかが、まとめておかしくなってきとる気がしてならんわい」
ハルは何も言わなかったが、その一言が胸の底に小さく沈んで残った。
歩くうちに、ハルは無意識に右手で懐の紐を掴もうとして――指が言うことを聞かず、焼けるような痛みだけが跳ねた。思わず息を詰めて足を止める。
「……何やってんだよ」ミラが訝しげに眉を寄せた。
「別に。指がまだ利かねえってだけだ」ハルは吐き捨てるように言って、痺れの残る手を握り込むこともできないまま、また歩き出した。頭では分かっていたつもりだったが、こうして無駄に痛みを踏み抜いて初めて、この手がまだ使い物にならないのだと骨身に染みた。それでも、止まる気にはならなかった。
「――ここまでじゃな」瓦礫地帯の境で、オルグは足を止めた。「兄ちゃん、嬢ちゃんも、無理はするな。……この歳で儂が言うのも滑稽じゃが、二度目の生還を、また同じ手で買うんじゃないぞ」
「じいさんの忠告にしちゃ、随分まともじゃねえか」ハルは軽口で返しながらも、その言葉を胸の奥にしまい込んだ。それから、素っ気なく付け足す。「……悪かったな、じいさん。老骨に鞭打ってここまで付き合わせちまって」
「それでも、送ってくれてありがとよ、じいさん」ミラも短く頭を下げた。「じいさんがいなきゃ、あたしらもっと間抜けなまま突っ込んでたはずだ」
オルグは皺だらけの顔を僅かに緩めた。「礼を言われるほどのことでもないわい。……行け。儂はここで見送るだけじゃ」
歩き出してすぐ、ハルはふと背後を振り返った。崩れた屋根の縁――一瞬、小さな金属の光が揺れた気がした。あの鞘の意匠を思わせる光。目を凝らすが、もう何もない。見張りはまだ続いているということか。
「どうした?」ミラが訝しげに聞く。
「……何でもねえ」ハルは短く答え、また歩き出した。今は灰塚の方に気を張るべきだ。
灰塚の入口が見えてきた瞬間、ハルは足を止めた。
記憶にあった姿と、何かが違う。崩れた岩肌に走る亀裂――以前は乾いた裂け目でしかなかったそれが、今は内側から淡い光を滲ませていた。灰塚の主の紋様と同じ、脈打つような明滅。それも、以前よりずっと濃く、深く、まるで生き物の心臓が透けて見えているようだった。
「……嘘だろ」ミラの声が掠れた。
「……おい、大丈夫かよ」ハルは動かない右手を握りしめようとして、また痛みに顔をしかめながらも、掠れたミラの声に短く声をかけた。
「大丈夫なわけあるかよ、こんなの」ミラは強張った声のまま、それでも軽口を絞り出そうとして、うまくいかなかった。
壊れかけた手のまま、灰塚はもう、以前の灰塚ではなくなっていた。




