途中の名前
目が覚めた瞬間、右手を握ろうとして、握れなかった。
指の先まで火箸を押し当てられたような熱と、その奥の芯だけが冷え切っている感覚。動かない。動かそうとするたびに、腕の付け根まで痛みが逆流してくる。ハルは天井を睨んだまま、しばらく息を止めていた。
「動かすな、って言ったろ」
隣で寝ずの番をしていたらしいミラが、濡らした布を握った手のひらでハルの手をそっと包み込んだ。冷たさが染みるより先に、痛みが少しだけ引いた気がした。
「……悪いな」
「悪いなじゃないっつの。ヴェイン家の庭で見世物にされた挙句、こんな手で帰ってきといて」ミラは布を巻き直しながら、素っ気なく続ける。「あと三日は握るなよ、これ。握ったら二度と開かなくなるかもしれねえぞ」
冗談めかした声の底に、笑えない本気が滲んでいた。ハルは黙って頷いた。頷くくらいしか、今できることがなかった。
戸を叩く音がしたのは、日が高くなり始めた頃だった。ミラが身構えるより先に、聞き覚えのある平坦な声が名を呼んだ。
「ハル。開けてくれ」
リードだった。部屋に入るなり、彼は普段の淡々とした様子を保ちながらも、視線だけがわずかに険しかった。
「昨夜、ヴェイン邸で何があったか話は聞いている」リードは椅子に腰を下ろさず、立ったまま続けた。「屋敷の様子が慌ただしかったと、見張りから報告が上がった」
「見世物にされただけだ」ハルは短く吐き捨てた。荷を運んだ片棒担ぎとして消されかけたのが、まさかあの屋敷の主自らとはな――内心でそう独りごちる。灰塚の荷を運んだあの日から、消される側に回っていたのは分かっていたつもりだったが、行き着いた先が当主の庭だったとは思わなかった。「当主とやらは、俺の手を確かめたかったらしい。……で、確かめた後、灰色の使者が妙なことを言い残していった。書付の名は、ヴェイン家だけじゃねえってな」
リードの表情が動いた。わずかにだが、確かに動いた。
「……それを聞くために、朝一番で来た」リードは低く言った。「書付にあった符丁は、ヴェイン家の割り当てだけじゃない。他にも、まだ表に出ていない記号が並んでいた。……その一つは、ギルド中央にも繋がっている可能性がある」
部屋の空気が一段冷えた。
「ギルド中央、だと」ミラの声が硬くなる。「あたしらの借金の利率握ってた出張所どころか、もっと上まで腐ってるってことかよ」続けて思い出したように、ふんと鼻を鳴らす。「そういやライグの野郎、あれ以来顔も出さねえな。書付を渡した後ろめたさでも感じてんのか、それとも余計な口利いて何か掴まされてんのか……どっちにしろ、あの野郎らしくもねえ大人しさだ」
「断定はできない。だが、可能性は消せない」リードは淡々と、それでいて言葉を選びながら言った。「当主が、ハルの手にこだわった理由がもう一つある。……身につけていた結晶の欠片の話だ。触れる度に光る、というのは本当か」
「本当だ」ハルは灰塚の壁の脈動を思い出しながら答えた。「あれは、迷宮の中で見た紋様と同じ光り方をしてた」
リードは束の間、口を閉じた。「――やはりか」呟くように漏らした一言には、いつもの平静とは違う重みがあった。「あの結晶は、限られた迷宮でしか採れないと聞いている。ヴェイン家が独占していたのも、その希少さゆえだ。……もしそれが本当に迷宮の"意志"と繋がっているとしたら、この件はギルドの不正よりも根が深い」
言い切ったところで、表の階段を駆け上がる荒い足音が響いた。ノックもなく戸が開く。
「――兄ちゃん! 嬢ちゃんも、いてくれたか!」
オルグだった。息を切らし、顔色は酒の赤みではなく、別の色に変わっていた。肩が上下し、言葉より先に息を継ぐ音の方が耳につく。
「……じいさん、そんなに急いで駆けてくるほどのことかよ」ハルは思わず声をかけた。柄にもないと分かっていたが、老人の息の荒さの方が、話の中身より先に気にかかった。
「心配すんな、兄ちゃん」オルグは片手を振って笑おうとしたが、笑いにはならなかった。「儂の脚より、報せの方が急ぐんじゃ」
「灰塚だ」老人は喘ぎながら言った。「昨夜から、あそこの空に妙な光が漏れとる。地の底から灯るような、あの――兄ちゃんが眠っとる間に見たっつう紋様と、同じ色じゃと聞いた」
ハルの頭の中で、何かが繋がる音がした。灰塚の主の死骸は、消えていた。それが、まだそこにいるとでもいうのか。
「気配も、まだ濃いままじゃ」オルグの声は震えていた。「儂はもう潜らんが……兄ちゃん、嬢ちゃんも、今の手のままじゃ、二度目は保たんぞ」
「……悪いな、じいさん」ハルは感覚のない右手を見下ろしたまま、素っ気なく言った。「歳食った体に鞭打ってまで、わざわざ報せに来てくれてよ」
「じいさんが謝ることじゃないっつの」ミラも短く続けた。「――でも、ありがとよ。おかげで何にも知らねえまま潜らずに済んだ」
オルグは何か言いかけて、結局それには答えず、しわだらけの顔を歪めるようにして頷いただけだった。
オルグが戸口を出ていくのを見送り、戸を閉めようとした拍子に、ハルはふと視線を感じて振り返った。屋根の縁――一瞬だけ、何かの影が揺れた気がした。あの鞘の意匠を思わせる、小さな金属の光。またか。まばたきをする間に、影はもう消えていた。気のせいか、それとも見張られ続けているのか、確かめる術は今の手にはない。
握れない右手を、ハルは意地でもう一度握ろうとした。痛みが弾け、諦めた。壊れかけた手のまま、灰塚がまた牙を剥こうとしている。休む間もなく、その予感だけが部屋の空気を塗り替えていった。




