灰塚の忠告
ミラに連れられて着いたのは、看板の文字すら剥げ落ちた場末の酒場だった。安酒の匂いと煙草の煙が薄闇に沈み、隅の卓では誰かが小声で賭け事の相談をしている。
「で、詳しい話ってのはここで聞くのか」
「胡散臭い話は胡散臭い場所で聞くもんでしょ」
ミラは平然と言って、欠けたカップに安酒を注がせた。仲介人と名乗る痩せた男が向かいに座り、指先で卓を叩きながら話し始める。護衛先は迷宮「灰塚」の深部。期間は最短でも三日、荷か人かは現地でしか明かせない。前金なし、成功報酬のみ。
「――で、依頼主の名は」
「それも、現地に着いてからのお楽しみ、ということで」
男は愛想笑いだけを残して席を立った。ハルは酒には口をつけず、カップの中で揺れる自分の顔を睨んだ。
「前金なし、対象不明、依頼主も名無し。上等に胡散臭えな」
「報酬だけは本物よ。あたしが確かめた」
「本物の金と本物の罠、見分けつくのか?」
「つかないから、こうやって酒場で相談してんじゃないの」
ミラは肩をすくめ、干からびた笑みを作った。だがその目は、いつもより硬い。
「灰塚か。あそこは近頃、様子がおかしいわい」
しゃがれた声が割り込んだのは、卓の隅で一人、安酒を舐めていた老人だった。継ぎ接ぎだらけの外套に、片方だけ濁った目。ハルもミラも顔だけは知っている。スラムの主のように酒場に居座る、元冒険者のオルグだ。
「兄ちゃん、その依頼、受けるのか」
「勝手に聞き耳立てて、勝手に口出しかよ、あんた」
「儂はもう潜らんがな。だからこそ、潜る若いのの話は聞こえてくるわい」
オルグはカップを傾け、酒精で焼けた喉を鳴らした。
「灰塚は昔から大人しい迷宮でな。餌が少ない代わりに、出てくるもんも大したことはなかった。だが最近は、下から上がってくる連中の顔つきが変わってきとる。……何かに追われた顔じゃ」
「何かって何だよ」
「わからんから忠告なんじゃろうが」
オルグはそれ以上語らず、ただ濁った目でハルの右手――まだ赤黒く腫れたままの手を一瞥した。何かを見透かすような、それでいて答えを持たない目だった。
「儂に言えるのはひとつだけよ。灰塚は、近頃おかしい」
老人はそれきり黙り込み、また安酒を舐め始めた。それ以上何を訊いても無駄だろうというのは、長年のスラム暮らしで嫌というほど身についた勘でわかった。
――悪態はついたが、あの目はいつも当たる。厄介なことに、な。
腹の底で毒づきながらも、ハルは老人の忠告そのものを笑い飛ばす気にはなれなかった。伊達に長く迷宮の底を這ってきた爺さんじゃない。それだけは、認めてやる。
ハルは腫れた右手を握って開いてを繰り返した。まだ痺れは抜けきっていない。宿代にも足りない稼ぎ、買い叩かれた素材、明日を凌ぐための飯。天秤にかけるまでもなかった。
「……受けるぞ」
「本気? 灰塚の様子がおかしいって、今の話聞いたでしょ」
「聞いた上で言ってる。腹減って死ぬのと、胡散臭い依頼で死ぬのと、どっちがマシかなんざ、今さら選べるほど余裕ねえんだよ、俺らには」
ミラはしばし黙り、それから小さく笑った。諦めとも同意ともつかない、乾いた笑いだった。
「――だと思ったわよ、坊や」
背後で、オルグの呟きがもう一度聞こえた気がした。あの迷宮は近頃、様子がおかしい――ハルはそれを聞き流したふりをして、割の悪すぎる賭けに、片手だけの署名を交わした。
酒場を出ると、夜気が刺さるように冷たかった。腫れた右手の芯が、まだじくじくと疼いている。さっきまで賑やかだったはずの通りが、やけに静かに感じられた。まるでこの静けさごと、灰塚の奥へ引きずり込まれていくような――そんな予感を、ハルは無理やり笑って押し殺した。




