当主の値踏み
灯りの並ぶ回廊の奥、片側の壁一面が硝子窓になった広間があった。窓の向こうには手入れの行き届いた庭が広がり、灯りの届く範囲の先には、まだ闇が沈んだままの暗がりが続いている。その広間の中央に、一人の男が立っていた。
歳の頃は四十を過ぎたあたりか。仕立てのいい上着を着崩すことなく纏い、両手を後ろで組んだその立ち姿には、私兵の威圧とも灰色の使者の慇懃さとも違う、もっと底の据わった落ち着きがあった。
「よく来たな、ハル。それにミラも」
名を呼ばれた瞬間、背筋を冷たいものが撫でた。声を荒げたわけでも、睨みつけたわけでもない。ただ正確に、当然のように名を口にしただけだ。それがかえって、こちらの何もかもが既に調べ上げられていることを突きつけてきた。
「……随分と物覚えのいいことだな、あんた」ハルは皮肉で武装しながら、部屋の隅々に目を走らせた。逃げ場は、無い。硝子窓の向こうの闇も含めて、確かめずにはいられなかった。
「私はヴェイン家当主、アルダス・ヴェインという」男は微笑んだまま名乗った。「座って話そう。長くはかからない」
椅子は勧められたが、ハルもミラも動かなかった。ミラの指先が、無意識にいつも小刀の束があった腰のあたりを探って、空を掴んでいる。
「単刀直入に言おう」アルダスは指先の小さな結晶の飾りに触れながら続けた。「聴聞での証言――あれを、無かったことにしてもらえないだろうか」
「灰色の兄さんに聞いた話と同じじゃねえか」ハルは吐き捨てた。「答えも同じだ。売るには安すぎる」
「そうか」アルダスは残念そうにすら見えない声で言った。だがその笑みは崩れなかった。「では、値をつける方向を変えよう」
「――は?」
「ハルのその手――実に、惜しい使われ方をしている」アルダスはハルの右手へ視線を向けた。飾り気のない眼差しの奥で、何かがちらりと光った気がした。結晶の飾りに触れる指先と同じ、微かな発光。「掴んだものの重さを操る。生身のまま、格上にすら喰らいつく。……それを、雑用と二束三文の査定でしか測れない者たちのもとに置いておくのは、資源の無駄遣いだ」
部屋の空気が変わった気がした。ハルは奥歯を噛んだ。
「証言と引き換えに、ヴェイン家で召し抱えよう。相応の待遇、相応の暮らしを約束する」アルダスの声は最後まで穏やかだった。「ハルのその手を、正しく使ってやれるのは私だけだ」
沈黙が落ちた。ミラが横目でハルを窺う。強張ったその横顔に、ハルは素っ気なく続けた。
「……ビビってねえだろうな、お前」
「ビビってるに決まってんだろ、こんなの」ミラは低く答えたが、視線はまっすぐアルダスを見据えていた。それでも、その声には強張りの底からもう一段芯の通ったものが滲んでいた。
ハルは痺れの残る右手を握り、開いた。感覚は鈍い。だが、まだ動く。それだけで十分だった。
「上等な話だな」ハルは低く笑った。「だが、あんたに買われるくらいなら、二束三文で買い叩かれてた方がマシだ。少なくとも、あの査定官は俺を化け物の道具にはしようとしなかった」
アルダスの微笑みは崩れなかった。ただ、声の温度だけがわずかに下がった。
「……そうか。残念だ」
男は結晶の飾りへもう一度触れ、静かに右手を軽く上げた。合図と呼ぶには小さすぎる仕草だった。だが硝子窓の外――整えられた庭の灯りの、その一歩先の暗がりから、いくつもの足音が音もなく動き出すのが分かった。
「言っただろう」アルダスは微笑んだまま言った。「選べるのは、場所くらいのものだと」
窓の外、灯りの届かない庭の縁に、影が一つ、また一つと現れ始める。得物を預けたまま丸腰の二人を、じわりと囲むように。かすかに、鞘の鯉口が切られる音が続けて響いた。一つ、また一つ。数えるほどに、囲みの輪が狭まっていくのが分かる。
「……上等だ」ハルは低く呟いた。だがその声には、いつもの軽口の余裕は無かった。庭を埋めていく足音の数を数えながら、ハルは痺れの残る右手をもう一度、意地で握りしめた。




