開かれた門
夜明け前、扉を叩く音でハルは目を覚ました。丁重すぎるほど整った拍子の三回ノック。私兵の乱暴な蹴りとも、灰色の使者の忍びやかな足音とも違う。
戸を開けると、見覚えのない従者風の男が二人立っていた。腰に剣は差しているが抜く気配はなく、恭しく一通の書状を差し出してくる。封蝋にはヴェイン家の紋――もう隠す気もないその意匠が、朝の薄明かりの中で鈍く光っていた。
「本日夕刻、当主様がお二人をお待ちです」従者はそれだけ告げると、返事も待たずに一礼して踵を返した。
隠す必要がなくなった、ということだ。名が表に出た以上、こそこそ嗅ぎ回る段階はもう終わり――そう理解して、ハルは書状を握りつぶしそうになるのをどうにか堪えた。
「……随分と、丁寧な招待状じゃねえか」吐き捨てるように呟く。
「丁寧すぎて、逆に不気味なんだけど」ミラが横から書状を覗き込み、顔をしかめた。「これ、行かなかったらどうなるんだろうな」
「聞くまでもねえだろ。断ったところで、見張りが消えるわけじゃねえ」ハルは屋根の縁に目をやった。あの日と同じ角度に、まだ人影が張り付いている。
そこへ、階段を上がってくる足音がした。リードだった。書状を一瞥し、短く言う。
「聞いたか。当主が直々に、というのは異例だ」その声に、いつもの平坦さからわずかに外れた硬さが滲んだ。急な展開を歓迎していないのは、ハルだけではないらしい。
「歓迎の匂いはしねえけどな」ハルは肩をすくめた。
「ヴェイン家の屋敷は、中央の管轄が及ばない私有地だ」リードは続けようとして、一度言葉を切った。珍しく、次の一言がすぐに出てこない。「……俺が一緒に行くことはできない。門をくぐった先で何が起きても、俺には手が出せない」
言い切った後も、リードは束の間、視線を書状に落としたままだった。苦い顔とまでは言えないが、普段の無感情な平静とは違う何かが、その一瞬だけ滲んで消えた。
その一言に、部屋の空気が冷えた。ミラの指先が、わずかに強張るのが分かった。
「……行くなとは言わないんだな」ハルは低く言った。
「行かなければ、向こうはこちらから出向いてくるだけだ」リードは表情を変えずに言った。「選べるのは、場所くらいのものだろう」
沈黙が落ちた。ハルは痺れの残る右手を握り、開いた。感覚は鈍いが、まだ動く。
「……ビビってねえだろうな、お前」ハルはミラの強張った横顔に気づいて、素っ気なく声をかけた。
「ビビってるに決まってんだろ、こんなの」ミラは笑おうとして、途中で失敗した。それでも、すぐに顔を上げる。「でも――あたしも行く。ハルひとりで行かせて、後でどうなったか知らされるなんてごめんだからな」
「知るかよ……知るかよ、そんな理由でお前を置いてけるわけがあるかよ」ハルは書状を握り直した。「上等だ。招待に応えてやろうじゃねえか」
夕刻近く、宿の前に一台の馬車が横付けされた。飾り気のない黒塗りの車体に、御者台に座る男が一人。手綱を握る指先まで隙のない所作で、静かに一礼する。
「お迎えに上がりました」
ハルはその顔に、見覚えがある気がして眉を寄せた。――思い出す。灰塚深部への依頼の日、荷を運び出す倉庫の前で一瞬すれ違った男だ。あの時は御者ではなく、荷を検める側に立っていた。
「……あんたも、あの荷に関わってた口かよ」ハルは低く言った。
御者は答えなかった。ただ短く一礼し、扉を開けるだけだった。何も言わないことそのものが、答えのようなものだった。
「……行こうぜ」ハルはミラに目配せをして、先に乗り込んだ。
馬車は石畳の道を進み、貴族街の外れに建つ屋敷の前で止まった。高い石塀に囲まれ、鉄の門扉には見慣れたヴェイン家の紋が打たれている。門の両脇には、私兵とは違う、隙のない立ち姿の衛兵が二人。
書状を掲げると、衛兵の一人が無言で頷いた。もう一人が歩み寄り、断りもなくミラの腰元――投擲用の小刀の束に手を伸ばす。
「得物は、預からせていただきます」
「おい」ハルは思わず声を上げかけたが、ミラが先に、鞘ごと黙って差し出した。抜き身の刃が触れ合う小さな音が、やけに大きく響いた。
「……いいのかよ」
「丸腰で当主様の前に出ろってことだろ」ミラは肩をすくめてみせたが、握っていた指の跡が、掌にまだ白く残っていた。
衛兵はもう一人へ合図を送った。軋んだ音を立てて、鉄の門がゆっくりと開いていく。奥に広がる庭は手入れが行き届き、灯りが等間隔に並んでいた――まるで、逃げ込める暗がりを一つも残さないための計算のように。
「……随分と、歓迎する気満々じゃねえか」ハルは呟いた。だが声の底には、隠しきれない緊張があった。
門の奥、灯りに照らされた石畳の先に、灰色の上着の男――使者が、静かに立ってこちらを待っていた。
見覚えのある顔だ、とハルは気づく。金貨の入った革袋を差し出して、証言を買おうとした男。だが今日の物腰には、あの夜には無かったものが滲んでいた。使用人としての慇懃さの奥に、当主の名代として立つ者だけが纏う、静かな重みのようなものが。
「お二人とも、時間には正確でいらっしゃる」使者は一礼した。「――先日は、ご無礼をいたしました。今日のわたくしは、当主の名代として参っております」
「随分と使い勝手のいい役回りだな、あんたも」ハルは皮肉に唇を歪めた。
使者はその皮肉には取り合わず、ただ一礼を深くしただけだった。「どうぞ、こちらへ。当主が、お待ちです」
踏み出す一歩が、やけに重かった。ハルは痺れの残る右手をもう一度握り、開いた。門の奥がどれほど整えられていようと、そこが敵地であることに変わりはない。
灰色の使者の後に続き、二人は開かれた門をくぐった。




