当主のお召し
中央の聴聞の間は、スラムの喧騒とは別世界だった。石造りの高い天井、居並ぶ記録官、壁際に立つ衛兵――その静けさが、ハルには瓦礫地帯の静寂よりも息苦しく感じられた。
「緊張してんのか、坊や」ミラが小声で言った。声は軽いが、指先がわずかに震えている。
「柄にもねえこと聞くじゃねえか」ハルは前を見たまま答えた。「――それより、お前は平気かよ」
「平気なわけあるかよ、こんなとこ」ミラは肩をすくめてみせたが、すぐに背筋を伸ばした。「でも、逃げても仕方ねえだろ」
正面の高い机に着いた聴聞官が、書類を一枚捲る。その横にリードが立ち、ハルたちへ小さく頷いた。
「証言を」聴聞官の声は乾いていた。「灰塚深部の荷、書付の記号、そして私兵の一件について」
ハルは懐から紙切れ――紋の写し――を取り出し、机に置いた。「これと同じ紋を、荷の蝋封で見た。私兵の鞘でも、刺客の袖でも見た。書付の記号は、出張所の上層部が横流しに関わってた証拠だ」
淡々と、事実だけを並べる。感情を込める余裕もなかった。込めたところで、この石造りの部屋には響かない気がした。
そのとき、間の入口が開いた。
現れたのは、灰色の上着を几帳面に着込んだ男だった。剣も荷物も持たず、素手のまま歩を進める。ハルはその顔に、忘れようもない既視感を覚えた。宿を訪ねてきた買収の使者――あの男だ。
「わたくしは、ヴェイン家の名において、この場に立たせていただきます」使者は丁寧に一礼した。
家名を隠す素振りは、もうなかった。オルグの口から漏れ、リードの調べで裏づけられ、既に表に出てしまった名だ。今更それを伏せたところで意味はない――そう割り切ったような、淡々とした口ぶりだった。
「――お二人の証言、拝聴いたしました。ですが」
聴聞官が視線を上げる。使者は続けた。
「灰塚深部の荷、私兵の鞘、刺客の袖――いずれも、状況を語るに過ぎません。証言者おふたりの記憶と、伝聞。それだけで、家の名を汚すには些か心許ないかと」
「心許ない、か」ハルは鼻で笑った。「――都合が悪いんだろ、あんたにとっちゃ」
使者の表情は、微塵も動かなかった。「感情論は、聴聞には不要です」
空気が変わった。記録官の羽根ペンが止まる。壁際の衛兵の列に、見覚えのある意匠を帯びた腰帯が一つ混じっていることに、ハルは気づいた――紋持ちだ。純粋な中央の衛兵に紛れて、ヴェイン家の息のかかった男が立っている。聴聞官もそれに気づいているのか、次の言葉を継ぐまでにわずかな間があった。ハルの胸の底で、冷たいものが広がった――このまま丸め込まれるんじゃねえかという予感だ。
リードが一歩、前に出た。
「感情論はいらない、というならちょうどいい」リードは懐から折りたたんだ書面を取り出し、机の上で広げた。「これは、鑑定士に依頼した紋の照合結果だ。書付の記号と、この金属片の紋、そして――刺客の装束の袖に遺されていた縫い取りの意匠。三つとも、同じ職人の手による同一の意匠だと、署名付きで断定されている」
聴聞官が身を乗り出す。使者の顔にも、初めて僅かな沈黙が落ちた。だが、それだけだった。声を荒げることも、慌てることもない。
「一致は、否定いたしません」使者は静かに言った。「ですが――一致した事実と、それが誰の意思によるものかは、別の話です」
「屁理屈だな、それ」ハルは低く笑った。「都合の悪い証拠が出たら、今度は『誰の意思か分からない』ってかよ」
「賢明な判断とは、思えません」使者はハルにだけ向けて言った。声の温度は変わらなかったが、そこに滲む圧だけが増した。
聴聞官が羽根ペンを置いた。「――双方の主張は記録した。裁定は、追って中央より下される」
保留。ハルは奥歯を噛んだ。ここまで積み上げたものが、まだ天秤の上で揺れている。
聴聞の間を出ると、外の空気はやけに冷たかった。ミラが小さく息を吐く。
「……今日じゅうに片が付くと思ってたけど」
「思うわけねえだろ、あんな連中がすんなり負けを認めるかよ」ハルは吐き捨てた。それでも、書付の記号と紋が一致した事実は、確かに記録された。無駄じゃない――そう自分に言い聞かせた。
石段を降りたところで、あの灰色の使者が追いついてきた。剣も持たず、急ぐ様子もなく、ただ確かめるような足取りで。
「ハル殿」使者は一礼した。「裁定が下るまでの間――ヴェイン家が、大人しくしているとは思わない方がよろしいかと」
「忠告はもう聞き飽きたよ、あんたからのはな」
「忠告では――」使者はそこで言葉を切った。いつものように婉曲な一言を重ねようとして、思い直したように口をつぐむ。声の抑揚は変わらないまま、その僅かな間にだけ、圧が滲んだ。
「――いいえ」使者は言い直した。「ご報告です。当主が、直接お二人にお会いしたいと仰っています。……この先は、わたくしの手には余ります」
ハルとミラは、思わず顔を見合わせた。
使者はそれ以上何も言わず、丁寧に一礼して踵を返し、石段を降りていった。その背中が人波に消えるまで、ハルは動けなかった。
「……当主って」ミラの声が、掠れていた。「今までの連中とは、格が違うってことじゃねえの」
ハルは答えなかった。答えの代わりに、震える右手をそっとミラの肩へ伸ばしかけて――やめた。触れれば、痺れがまた鈍く跳ねる気がした。
「……びびってんじゃねえよ、柄でもねえ」素っ気なく言った声は、半分は自分に言い聞かせているようだった。
「びびってんのはどっちだよ」ミラは笑おうとして、途中で失敗した。それでも、その声にはさっきよりほんの少し力が戻っていた。
懐の紙切れを握りしめる手に、痺れの残る右手が小さく震えていた。
宿に戻ると、扉にはまだあの紋の傷が残っていた。爪先で抉ったような浅い刻み目――第34話の夜、私兵が残していったものだ。誰も消していない。消す余裕も、消す意味もなかったのだろう。ハルは指先でそれをなぞり、屋根の縁へ目を上げた。瓦の隙間、あの日と同じ角度に、人の気配が張り付いている。監視は、まだ解かれていない。
「……当主直々の呼び出しと、これ、繋がってねえわけがねえよな」ハルは低く呟いた。
ミラも屋根を見上げ、それきり黙った。呼び出しが来ようが来まいが、見張りはずっとそこにいた。ヴェイン家にとって、聴聞も呼び出しも、監視をやめる理由にはならないということだ。




