ヴェイン家の名
扉に刻まれた紋を、ハルは指の腹でもう一度なぞった。爪の先で引っ掻いたような、浅く几帳面な彫り。誰の手癖かは知らないが、震えた形跡がないのが余計に腹立たしい。
「……行くぞ」
「聞くまでもねえだろ、それ」ミラは荷をまとめる手を止めずに答えた。「オルグのじいさんとこだろ」
昨夜のうちに眠れる余裕なんぞ端から無かった。灰色の使者が残していった金貨の重さと、扉に刻まれた紋の軽さ――どちらも、腹の底に嫌な染みを残したまま夜が明けた。
思えば、あの刺客が「二日後」と口にしたのは、リードが告げた「三日後」から一晩分過ぎただけの計算に過ぎない。日数がずれたわけじゃない、ただあの夜からもう一晩が明けていた――それだけのことだ。今さらそれに気づいて、ハルは苦く笑った。
スラムへ向かう道は、朝だというのに人通りが薄かった。荷車の軋む音、遠くで誰かが金属を叩く音――いつもと変わらないはずの喧騒が、今日はやけに遠くから聞こえる気がした。気のせいだと分かっていても、足の運びが自然と速くなる。
スラムの片隅、いつもの壁に背を預けているオルグは、今日はまだ酒瓶に口をつけていなかった。それだけで、こっちの用件を察していたのだと分かった。
「兄ちゃん、嬢ちゃん」オルグは濁った目を上げ、すぐにハルの右手へ視線を落とした。「その手、また無理をさせたようじゃな」
「そういえば、灰塚の方はまだ静かなままか」オルグはふと呟いた。「あの一件からこっち、深部の様子を聞かんでな」
「静かなもんだよ、今のところは」ハルは短く答えた。腹の底に沈めたままの、あの発光する紋様の記憶が、ちりっと疼いた気がした。「――だが、今日はそっちの話じゃねえ」
「無理をさせなかった夜なんざ、この一月で一晩もねえよ」ハルは金属片ではなく、灰色の使者が扉に残していった紋を、指で写し取った紙切れを差し出した。「もう隠しても仕方ねえだろ、じいさん。宿の戸に、これを刻んでいったんだ。……教えてくれ」
オルグの手が、紙切れを受け取ったまま止まった。長い沈黙があった。酒瓶の口を握る指が、また白くなる。風がスラムの瓦礫の隙間を抜け、乾いた埃を薄く巻き上げて消えた。
「――ヴェイン家じゃ」
低く、それだけ言った。
「昔、迷宮産の資源を独占するために、邪魔な冒険者を私兵で消してきた家よ。儂の仲間を潰したのも、あの家の紋を掲げた連中じゃった」オルグの声は、酔いも呂律の怪しさもなく、妙にはっきりしていた。「――そこまで来たか。もう隠す意味もあるまいがな」
名前を聞いた瞬間、頭の奥で何かが軋んだ。――思い出したのは、まだガロと組んでいた頃、依頼主の顔も名前も出てこなかったあの護衛の仕事だ。前金なし、護衛対象は最後まで見せられなかった。あの時は「陰気な仕事もあるもんだ」で片付けていたが、今にして思えば、あれもこの筋から出ていたんじゃないか――そう思うと、腹の底がまた冷たくなった。
「ヴェイン家、か」ミラが乾いた声で繰り返した。「聞いたことねえ。でも聞いたことねえってことが、逆に嫌な感じするよ」
「聞いたことがないのは道理よ。あの家は、名を出さずに済ませることに慣れとる」オルグは紙切れをハルの手に押し返した。「兄ちゃんたちは、その名を知ってしまった。……もう退けん道を選んだということじゃ」
「……悪かったな、じいさん。また嫌なこと思い出させちまって」ハルは紙切れを懐にねじ込んだ。
「なに。老いぼれの話が、少しでも役に立つならそれで十分よ」オルグは酒瓶を取り、初めて口をつけた。「聴聞は、明日じゃったな」
「よく知ってんじゃねえか」
「街の噂は、儂の耳にも流れてくるわい」オルグは瓶を膝に置き直した。「――兄ちゃん。名を知って進む以上、退き際の算段だけは忘れるな。それだけが、儂の言えることじゃ」
「……それでも、話してくれてありがとよ、じいさん」ミラが短く頭を下げる。
スラムを抜け、出張所へ向かう道は次第に人の声を取り戻していった。露店の呼び込み、荷馬車の軋み、子供の泣き声――普段なら気にも留めない雑音が、今日はやけに耳につく。ハルは紙切れを握った懐の辺りを、無意識にもう一度押さえた。
出張所の前まで戻ると、リードが柱に肩を預けて待っていた。
「聴聞は明日だ」前置きもなく言う。「――何か、掴んだか」
ハルは紙切れを見せた。名を口にするのは避け、ただそこに書かれた紋の写しだけを見せる。リードの表情が、初めて僅かに動いた。
「ヴェイン家、か」低く呟いた声には、隠しきれない重さがあった。「思っていたより、大きい」
「あんたも知ってたのかよ、その名」
「名までは掴んでいなかった」リードは静かに首を振った。「――だが、これで裏が取れた。書付の記号と、この紋が同じ筋から出ていると証言できる。聴聞の場で、それを言え」
「言った先に、何がある」
「分からない」リードは正直だった。「向こうが黙って引くとは思えない。だが証言が出れば、少なくとも中央は動かざるを得なくなる」
「知るかよ、そんな面倒な話」ハルは吐き捨てたが、腹の底の冷たさは前よりわずかに薄かった。名前が一つ、ようやく形を持ったからだ。
「……お前も、聴聞まで気を抜くんじゃねえぞ」ハルは前を向いたまま言った。
「殊勝な忠告だこと」ミラは肩をすくめてみせたが、その目にはまだ硬さが残っていた。「あたしより、ハルの手の方が心配だけどな」
出張所を出て、宿へ戻る道の途中だった。通りの向こうから、蹄の音と共に一台の馬車が近づいてくる。塗りの剥げた街並みには不釣り合いなほど手入れの行き届いた黒塗りの車体――その扉に、見覚えのある紋が金で描かれていた。
ハルは足を止めた。ミラも、隣で息を止める。
馬車は速度を落とすことなく、二人の脇を通り過ぎていく。御者台の男が、ちらりとこちらへ視線を寄越した。値踏みするでもなく、驚くでもなく――ただ、確かめるように。
そして、口の端だけで小さく笑った。
蹄の音が遠ざかっても、その笑みだけが、いつまでも路地の空気にこびりついて離れなかった。
「……見られたな」ミラの声が、震えを堪えるように低くなった。
ハルは懐の紙切れを、痺れの残る手で握り込んだ。それから、まだ強張っているミラの横顔にちらりと目をやり、素っ気なく続けた。
「……大丈夫かよ、お前」
「大丈夫なわけあるかよ、こんなの」ミラは笑おうとして、途中で失敗した。声の軽さが、いつもより薄い。
「……見られただけならまだいいさ」ハルは話をずらすように言った。「――問題は、あっちがもう俺たちの顔を覚えたってことだ」
聴聞は、明日。




