売るには安すぎる
刺客を退けてから、まださほど経っていない夜だった。左脇腹を庇いながら消えていった影の背中が路地の暗がりに溶けてから、宿に戻ったばかりだ。痺れの引かない右手に包帯を巻き直しながら、ハルは「二日後、聴聞の場に大人しく引っ込んでいられる保証はねえぞ」という捨て台詞を、まだ耳の奥で反芻していた。
そこへ、誰かが宿の壁を静かに叩いた。
ノックというより、値踏みするような間合いの叩き方だった。ハルは包帯の先を止め、ミラと目を合わせる。剣を提げた気配ではない。もっと乾いた、事務的な気配だった。
戸を開けたミラの前に立っていたのは、若くも老いてもいない、灰色の上着を几帳面に着込んだ男だった。腰には剣どころか、荷物一つ提げていない。
「ハル殿と、お連れの方で」男は名乗らず、丁寧すぎるほど丁寧に一礼した。「わたくしは、少しお耳を汚したく参りました」
「掴み屋に殿付けか。上等な冗談だ」ハルは椅子に座ったまま、包帯の先を口で結んだ。「用件だけ言え。長居されると匂いで飯がまずくなる」
男は気分を害した様子も見せず、懐から小さな革袋を取り出し、卓の上に置いた。ずしりと重い音がした。
「聴聞の場での証言を、なかったことに。それだけで、これをお渡しいたします」
袋の口が開くと、金貨がぎらりと覗いた。宿代の心配もなく、借金取りに怯えることもなく――何年、いや何十年も遊んで暮らせるだけの重さが、そこにあった。
ミラの喉が小さく動いた。ハルも、一瞬だけ、頭の奥で算盤が鳴るのを感じた。飯の心配をしなくていい暮らし。それこそ、この稼業に足を突っ込んだ理由そのものだ。
だが――その重さを見た瞬間、腹の底に浮かんだのは、灰塚の主の残欠を「二束三文」と切り捨てたグレタの声だった。命懸けの戦果すら数字にならないと嘲笑った、あの声。
「証言をなかったことに、か」ハルは眉を寄せた。「書付ならとっくにライグに渡して、リードの手の中だ。今更こっちに証言を引っ込めろって、寝言にしちゃ手が込んでるじゃねえか」
「その袋、見た目より軽いんじゃねえのか」ハルは低く続けた。「俺とミラの命と、あんたらの後ろめたさを両方買うにしちゃ、安すぎる」
「ハルが囮になった時の方が、まだ重かったな」ミラが横から吐き捨てる。「あたしらを幾らで売る気だよ、これで」
男の表情は変わらなかった。革袋の口を、静かに閉じる。
「賢明とは言えない選択です」男は淡々と続けた。「証言そのものは、もう覆せないでしょう。ですが――聴聞の場に、お二人が本当に立てるかどうか。それを保証できるのは、あなた方ではありません」
「知るかよ、そんな脅し」ハルは椅子を鳴らして立ち上がった。「二日後、俺たちはちゃんと立つ。買えるかどうか、あんたの雇い主にそう伝えとけ」
男は一礼し、革袋を懐に戻して踵を返した。戸口で一度だけ足を止め、振り返らずに言った。
「――その紋の家が動けば、聴聞そのものが開かれないこともあります。それだけは、覚えておくといい」
足音が遠ざかっていく。ハルはそれを追うように戸口へ寄り、鍵をかけようとして――指先が、木枠の端に引っかかった。
目を凝らすと、扉の縁に浅く、刻まれたばかりの印があった。小さな紋。路地裏で見た刺客の鞘の焼き印と、同じ形をしている。誰かがつい先ほど、爪か小刀の先で刻んでいったものだ。
「……ミラ、これ見ろ」
ミラが覗き込み、息を詰めた。「……印、つけてったのかよ。次はここだ、って言わんばかりに」
宿の中に沈黙が落ちた。ハルは痺れの残る右手を握り、開いた。
「……あの野郎、金でどうにかなると思ってやがった」ハルは吐き捨てた。「安く見られるのは慣れてるが、今のは腹が立つ種類の安さだ」
少し間を置いて、そっけなく続ける。「……お前、大丈夫かよ。さっきから声、強張ってんぞ」
「大丈夫なわけあるかよ、こんなの」ミラは強がるように片頬を上げかけたが、途中でやめた。「……でも、心配すんな。平気なふりくらいはできらぁ」
軽さを装った声の底には、まだ硬さが残っていた。「――でもさ。あの言い方、聴聞そのものを潰す気があるってことじゃないの」
その一言が、宿の壁の薄さを急に思い出させた。二日後の聴聞は、証言をするだけの場では済まされない――刺客が残した忠告と、扉に刻まれた紋が、頭の中で一本の線に繋がっていく。
窓の外、通りに人影はない。だが宿の向かいの屋根の上、月明かりに照らされた瓦の埃だけが、さっきまで誰かがそこに座っていたかのように、乱れたまま白く浮かんでいた。




