試すような一太刀
鞘を鳴らす音は、思っていたより小さかった。
抜き放たれた刃が月明かりを弾く。ハルは考えるより先に、右手で自分の肩に触れていた。焼けるような痺れの奥から、僅かに残った力を絞り出す――軽く。
踏み込んできた影の切っ先が、空を裂いた。ほんの一瞬前まで、そこにハルの喉があったはずの場所を。
「――思ったより、しぶといじゃねえか、掴み屋」
低く笑う声には、若さも老いも滲まない、職業として人を殺してきた者特有の平坦さがあった。上着の意匠は削り取られたように潰され、目立った紋はどこにも見当たらない――使い捨ての駒だと、直感が告げてくる。だが提げた鞘の鯉口にだけ、小さく焼き印のような紋がひとつ残っていた。屋根の上から金属片を投げ寄越した誰かと、同じ意匠だ。見覚えがある、とハルは思った。
「上等だ」ハルは軽くなった体のまま横へ流れ、二撃目をやり過ごした。「化け物にも人間にも、随分好かれるじゃねえか、俺は」
軽口を吐きながらも、頭の芯は冷えていた。右手はもう限界に近い。もう一度重さを操れば、それきり握力すら残らないかもしれない。
「――今だ!」ミラの声が飛んだ。物陰から放たれた小刀が、影の視界の端をかすめる。狙いは外れたが、狙いだったのは目そのものではない――一瞬、相手の重心が揺れた。
その隙を、ハルは見逃さなかった。
軽いままの体で懐へ飛び込み、伸びてきた腕を左手で掴む。触れた瞬間、右手で自分の全身に重さを叩き込んだ。跳ね返るような衝撃と共に、渾身の一撃が相手の胴へめり込む。
「――っ」
うめき声と共に、影がよろめいて後退した。手の痺れが一気に肘まで這い上がってくる。もう一撃を放てるかどうか、正直に言えば分からなかった。
だが、相手はそれ以上踏み込んでこなかった。膝をつきかけた体勢のまま、こちらを値踏みするように見上げている。
「……しぶとい野郎だ」影は嗤いを収め、静かに刃を鞘へ戻した。左脇腹を庇うように片手で押さえている――今の一撃で、肋の一本くらいは軋んだはずだ。「今夜のところは、これで十分だ。想定にねえ怪我まで背負って粘る道理はねえ。深追いして面まで拝まれちゃ、こっちの雇い主に迷惑がかかる」
低く付け足す。「忠告はしといてやる――二日後、聴聞の場に大人しく引っ込んでいられる保証はねえぞ。……次に来るのは、俺みたいな捨て駒とは限らねえがな」
それだけ言い残し、影は塀を蹴って屋根へ跳んだ。追う力は、もうハルの手にも足にも残っていなかった。
黒い影が夜に溶けて消えると、静寂だけが残った。ハルはその場に片膝をつき、感覚のない右手を見下ろす。指先まで、鉛でも詰めたように重い。
「……無事かよ、お前」ハルは息を切らしながら、声を絞り出した。
「そっちこそ、その手、握れてんのかよ」ミラが駆け寄りながら、強張った声で聞き返す。
「動くさ。動かねえと困る」ハルは意地で指を一度握り、開いてみせた。感覚はほとんどなかった。
視線を落とすと、地面に小さな布切れが落ちている。今の一撃で、相手の袖口が裂けたのだろう。拾い上げると、月明かりの下、そこに刺繍された紋が浮かび上がった。――鞘の鯉口で見たのと、寸分違わぬ意匠だ。
「……これで、繋がったな」ハルは布切れを握りしめ、低く呟いた。鞘に焼かれた紋、袖に縫われた紋、そして屋根の上から寄越された金属片――同じ筋の人間が、三度も違う形で同じ印を残していた。もう偶然だと言い張れる段階はとっくに過ぎている。
「試された、ってことかよ」ミラの声が硬い。「聴聞の前に、あたしらがどの程度やるか、確かめに来たってわけだ」
「上等じゃねえか」ハルは布切れを握りしめた。強がりの軽口の底に、隠しきれない冷たさが滲んでいた。「聴聞の場で大人しくしてろ、だと。――冗談じゃねえ。あと二日、そっちの命の心配より、こっちの飯の心配の方が先だっつの」
だが、口にした強がりとは裏腹に、ハルは夜空の向こう、屋根の稜線をいつまでも睨み続けていた。次に来るのは捨て駒じゃない、という捨て台詞が、耳の奥にこびりついて離れなかった。二日後の聴聞は、ただ証言をするだけの場では、もう済まされない。




