紋章の家、三日後の聴聞
金属片は、朝になっても掌の中で妙に冷たかった。
握り込んだ拳を開いて、また閉じる。紋の彫りが皮膚に食い込む感触だけが、昨夜の出来事が夢でなかったことを教えてくる。
「まだ持ってたのかよ、それ」ミラが欠伸混じりに覗き込んできた。「捨てちまえばいいのに」
「捨てて済むなら、とっくにそうしてるっての」ハルは金属片を懐にねじ込んだ。「知ってそうな奴に、心当たりが一人いる」
スラムの片隅、いつもの壁に背を預けて安酒を舐めているオルグを見つけるのに、大した手間はかからなかった。
「兄ちゃん、嬢ちゃん」オルグは濁った目を上げた。その視線が一瞬、ハルの右手に流れる。腫れの引ききらない指先、皮の突っ張った掌――値踏みするようにそこへ留まってから、オルグはふん、と鼻を鳴らした。
「その手、まだ本調子じゃなさそうじゃな。……使い潰す前に、休ませてやれ」
「余計なお世話だっつの」ハルは短く返したが、悪態の割に手を隠すような仕草をした。「それより、その面、また厄介事を拾ってきた面じゃな、じゃねえだろ。持ってきたのはこっちだ」
ハルは黙って金属片を差し出した。オルグの指がそれを摘まみ上げ――次の瞬間、その手が止まった。酒瓶を持つもう片方の手も、宙で凍りついている。
「……どこで、これを」
「屋根の上から降ってきた。鞘に同じ紋があったってミラは見てねえが、俺は見た」
オルグはしばらく黙っていた。安酒の匂いの向こうから、老人らしくない鋭さが目つきに滲む。ふと、その目が路地の奥に一度だけ流れた。誰かに聞かれていないか確かめるような、短い間だった。
「……ここじゃ、あまり大きな声で話す代物じゃないわい」
オルグは声を落とし、酒瓶を膝の上に置き直した。指先が瓶の口を強く握りすぎて、白くなっている。
「――昔、儂がまだ潜っておった頃な。この紋を掲げた家の私兵に、仲間を一人潰されたことがあるわい」オルグの声は低く、呂律がやけにはっきりしていた。「名までは言わん。言えば、兄ちゃんたちまで巻き込むだけじゃ」
「もう十分巻き込まれてるよ、こっちは」ミラが乾いた声で返す。
「――だからこそ、言わんのじゃ」オルグは金属片を押し返した。「知って動けるほど、兄ちゃんたちの足場はまだ固まっとらん。……儂に言えるのは、その家に近づくなら、退き際を先に決めておけ、ということだけじゃよ」
核心には触れず、思わせぶりな忠告だけを残して、オルグは酒瓶に視線を戻した。それ以上は、何を聞いても口を割りそうになかった。
ハルは金属片を懐に戻しながら、素っ気なく言った。
「……悪かったな、じいさん。嫌なこと思い出させちまって」
「なに、老いぼれの昔話じゃ。忘れたふりが上手くなっただけで、忘れちゃおらんかったってだけの話よ」オルグは笑おうとして、うまく笑えなかった。
ミラも、いつもの軽口を挟む代わりに、短く頭を下げた。
「……それでも話してくれてありがとよ、じいさん」
「礼はいらん」オルグは酒瓶を呷った。「――そういえばな。灰塚の主とやら、骸がまだ見つかっとらんという噂もあるわい。討ったのは間違いなかろうが、迷宮ってのは死体一つ、素直に寄越しゃせんもんじゃ」
ハルは眉をひそめただけで、何も言わなかった。だが胸の奥に小さな棘が刺さったのは確かだった。
出張所の前まで戻ると、そこにリードが待っていた。今日は前置きもなく、用件だけを口にする。
「三日後だ」リードは静かに言った。「中央の聴聞、日取りが決まった。お前らには、書付を見つけた経緯を話してもらう」
「三日後、か」ハルは眉を寄せた。「ずいぶん急な話じゃねえか」
「向こうが急いでいる証拠だ」リードは表情を変えなかった。「――もう一つ。昨夜、屋根の上に何か見なかったか」
ハルとミラは思わず顔を見合わせた。
「……知ってたのかよ、あんた」
「見張っているのは向こうだけじゃない、というだけの話だ」リードの声に、微かな翳りが差した。「お前らを守る手はまだ薄い。聴聞まで、一人で出歩くな」
言うだけ言って、リードは背を向けた。
「――守る、ね」ミラが呟いた。「あの人、味方のつもりで言ってんのかね」
「知るかよ」ハルは短く返したが、腹の底の冷たさは消えなかった。味方だろうと敵だろうと、こっちの都合なんぞ聞きもしないという点では、どいつも同じだった。
「……お前も一人で出歩くんじゃねえぞ」ハルは前を向いたまま、付け足すように言った。
「上等な忠告だこと、坊やのくせに」ミラは肩をすくめてみせたが、その声にはいつもよりわずかに硬さが残っていた。
その夜、宿へ戻る道すがら、また視線を感じた。今度は屋根の上ではない――路地の奥、灯りの届かない暗がりに、鞘の意匠だけが月明かりに浮かんでいる。
ハルは足を止めた。背筋を、冷たいものが這い上がる。オルグの忠告も、リードの警告も、頭の隅で一斉に鳴った気がした。
「出てこいよ」低く声を投げる。「金属片一つで済ませる気なら、そもそも姿なんぞ見せねえだろうが」
暗がりの中で、何かが小さく動いた。人影が、こちらへ一歩、踏み出す。
その手が、腰の鞘にかかった。




