二つ名を呼ばれた日
朝から、ギルド出張所の前に人だかりができていた。
貼り出された一枚の告知に、誰もが顔を寄せている。
「灰塚、当面の間、深部への立ち入りを禁ずる」――それだけなら、いつもの迷宮閉鎖の告知と大差ない。だが、行間から漏れ聞こえてくる噂は違った。
「死骸が、消えたんだと」
「灰塚の主の、あの化け物のか」
「回収に行った連中が、穴の底を見て青くなって帰ってきたって話だぜ」
人だかりの奥から、青白い顔をした男が一人、よろめくように出てきた。手が小刻みに震えている。誰に問われるでもなく、独り言のように呟いていた。
「……引きずられた跡があった。あんなでけえ図体を、何が引きずったってんだ」
男はそれだけ言うと、逃げるように人混みへ紛れて消えた。
ハルは人だかりの端で足を止めた。隣でミラが眉を寄せる。
「……穴の底、空っぽってことかよ」ミラの声から、いつもの軽さが抜けていた。
「今の面、見たか」ハルは短く吐き捨てた。腹の底が冷える感覚には、覚えがあった。あの時、確かに殺したはずだ。だが――右手に残ったあの二重の重さの違和感を、忘れたことは一度もない。
灰塚の様子がおかしいと、真っ先に言い出したのはあの酒浸りの爺――オルグだったか。あの忠告は、伊達じゃなかったってことだ。
「知るかよ、そんな冗談」ハルは自分に言い聞かせるように呟いた。「殺ったはずのもんが消えるとか、笑えねえ」
そこへ、静かな声が割り込んだ。
「――掴み屋、と呼べばいいか。それとも、名で呼んだ方がいいか」
振り返ると、見覚えのない男が立っていた。仕立てのいい上着、背筋の伸びた立ち姿。グレタのような場末の査定官とは、纏う空気からして違う。
「ハル、だったな」男は答えを待たず続けた。「ギルド中央から来た。名はリードだ。……お前らが持ち込んだ書付、覚えているか」
ハルとミラは顔を見合わせた。ライグを通して表に出した、あの出張所上層部の名だ。
「あれが今、ちょっとした騒ぎになっている」リードは淡々と続けた。「名が出た男の後ろに、貴族の家がある。……お前らが思っているより大きい家がな」
「知るかよ、そんなでかい話」ハルは眉を寄せた。「俺たちは書付を拾っただけだ」
「拾っただけの人間を、向こうは放っておかない」リードの声は変わらず平坦だった。「数日のうちに、中央の聴聞に呼ぶことになる。お前らの証言が要る」
「聴聞、ですか」ミラは殊勝に相槌を打とうとした。だがその愛想は長くは保たなかった。すぐに皮肉に唇を歪める。「――柄にもなく澄ましてみようとしたけど、無理だね。あたしらみたいな掴み屋風情が、そんなご立派な場に呼ばれるとはね」
「掴み屋風情、とは俺は言っていない」リードは初めて、僅かに間を置いた。「灰塚の主を一人で仕留めた男を、今さらそう呼ぶ奴の方が少ないだろう」
その一言に、ハルは何も言い返せなかった。蔑みでも値踏みでもない声で名前を呼ばれる――それが、こんなにも据わりの悪いものだとは思わなかった。
「――灰塚の死骸の件も、無関係とは思えん」リードは踵を返しながら付け加えた。「消えた場所と、書付の家。両方の糸が、同じ方向を向いている気がしてならない。……近いうちに、また来る」
リードの背中が人混みに紛れて見えなくなると、ミラが小さく息を吐いた。
「……冗談じゃないよ、これは」ミラは呟いた。「借金が終わったと思ったら、今度は貴族の家が出てくるのかよ」
「知るかよ」ハルは短く返したが、声には強がりだけでは埋まらない重さがあった。
その夜、宿への道すがら、ハルはふと視線を感じて足を止めた。屋根の縁――誰かが佇んでいる。フードの人物とは、纏う気配が違った。腰にある鞘の意匠だけが、月明かりに一瞬光る。
瞬きの間に、その影は消えていた。
かちり、と屋根の縁で小さな音がした。見上げると、瓦の隙間に硬貨ほどの黒い金属片が挟まっている。手を伸ばして取ると、裏面に見覚えのある紋――先ほどの鞘に彫られていたのと同じ意匠が、月明かりに浮かんでいた。
見ているだけじゃない。何かを、寄越してきやがった。
「……ミラ」ハルは声を低くした。「今の、見えたか」
「――いや」ミラの声も、緊張に強張っていた。「何にも」
「……大丈夫かよ、お前」ハルは金属片を握り込みながら、素っ気なく続けた。柄にもないと分かっていたが、黙っている方が据わりが悪かった。
「大丈夫なわけあるかよ」ミラは強がるように笑おうとして、失敗した。「灰塚の死骸は消える、貴族は出張ってくる、得体の知れない誰かは物まで寄越してくる……こんな夜に平気な面してられる奴がいたら、そいつの方がどうかしてるよ」
灰塚の死骸は消え、書付の名は貴族の家に繋がり、見えない誰かがまた自分たちを見ている。掴み屋、という呼び名が変わり始めた矢先に、足元はますます深く沈んでいく気がした。




