温かい飯と、迷宮より古いもの
湯気の立つ椀を前にして、ハルはしばらく手をつけられずにいた。
肉が入っている。それも、筋張った屑肉ではなく、ちゃんと脂の乗った塊が三つ。パンも硬くない。齧れば歯が沈む、まともなパンだ。
「食わねえのかよ」
向かいでミラがとっくに匙を動かしながら言った。頬が緩んでいるくせに、声だけは素っ気ない。
「……借金がねえってだけで、飯の味がここまで変わるとはな」ハルは呟いて、ようやく匙を取った。「知らなかったよ、そんなこと」
「知らなかったのはお互い様だろ」ミラは肉を頬張ったまま笑った。「明日の分の飯を心配しなくていいって、こんなに腹に効くもんだったんだな」
痺れの引きかけた右手で椀を持ち上げる。まだ指先までは力が戻っていないが、匙を落とさない程度には動く。それだけで、上等だと思った。
食堂の隅で、誰かが声を潜めて話しているのが耳に入った。
「――灰塚の主だぜ、あれ。一人で潰したって話だ。掴み屋とかいう……」
「馬鹿にした呼び名だと思ってたが、あれを聞くと、なあ」
ハルは匙を止めかけて、止めなかった。聞こえなかったふりで肉を口に運ぶ。だが胸の奥で、何かが小さく引っかかった。掴み屋、という言葉が、いつもと違う響きで転がっていく。値踏みでも嘲りでもない、居心地の悪い響きだ。
「……」
「聞こえてんだろ、あれ」ミラが匙の先をハルに向けた。「悪い気はしないだろ、坊や」
「知るかよ」短く返して、ハルはそれ以上何も言わなかった。
食堂を出ると、路地の入り口に見慣れた猫背があった。安酒の匂いを纏わせたオルグが、壁に寄りかかって欠伸をしている。
「――兄ちゃん、嬢ちゃん」オルグは目を細めた。その視線が一瞬、ハルの右手に落ちる。「その手、まだ本調子じゃなさそうじゃのう」
「あんたに心配される筋合いはねえよ」ハルは手を軽く握って開いてみせた。感覚は半分も戻っていない。
「儂の勘は当たる。厄介なことにな」オルグはひとつ笑ったが、それから先はいつもより奥歯に物が挟まったような間があった。「――そういや、灰塚の主とやらの死骸、まだ誰も骨まで拾いに行けとらんそうじゃな。あそこはまだ、何かの気配が濃いらしい。……近頃、灰塚に限った話じゃなくてな。あちこちの迷宮の顔つきが、儂の若い頃とは違う気がするんじゃよ。うまく言えんが」
「与太話は聞き飽きたっつの」
「そうか。ならいい」オルグはあっさり引き下がり、ふらりと路地の奥へ消えていった。呂律の怪しい後ろ姿のはずなのに、最後にこぼした一言だけは妙にはっきりしていたことに、ハルは少し遅れて気づいた。
宿への道を戻る途中、人気の絶えた裏路地で、その気配はまた現れた。
「掴み屋」
低く抑えた声だった。振り返るまでもなく分かる。フードの人物が、いつものように音もなく立っていた。
「――あんたか」ハルは身構えかけて、やめた。敵意を向ける相手ではないと、もう分かっていた。「まだ何か用か」
「そちらの連れと合わせて、伝えておきたいことがある」フードの奥の顔は見えない。だが、いつもより一拍、間が長かった。「借金の一件も、荷の一件も、片がついたそうだな」
「あんたが噛んでたのかよ、それにも」ミラが警戒を隠さずに詰め寄る。
「関わってはいない。ただ、見ていただけだ」フードの人物は静かに首を振った。「――こちらの素性については、いずれ話す。今はまだ、その時ではない」
「はっ」ハルは吐き捨てた。「都合のいい時だけ出てくるんだな、あんたは」
反論も弁解もなかった。挑発には応じないとでも言うように、フードの人物はただ黙って一拍置いた。感情の色は、声にも気配にも出てこない。
「一つだけ、言っておく」
そこで初めて、声の温度が下がった。核心に触れる時だけの、あの重さだった。
「迷宮は、掴み屋――お前が思うより古い。大異変より先にあったものだ」
言葉はそれきりだった。ハルが問い返す間もなく、フードの人物は路地の暗がりに溶けるように消えていく。
残されたのは、ミラの強張った横顔だった。
「……大丈夫かよ、お前」ハルは強張ったその横顔に気づいて、素っ気なく声をかけた。柄にもないと分かっていたが、黙っている方が落ち着かなかった。
「……柄でもないこと聞くじゃないか」ミラは肩をすくめてみせたが、その声はまだ少し掠れていた。「別に、平気だよ。ちょっと、頭の中がぐらついてるだけでね」
「無理すんな。ぐらついてる面してんぞ、お前」
「うるさいね。そっちこそ、指一本まともに動いてないくせに」ミラは軽く鼻を鳴らしたが、視線はまだ路地の暗がりに向いたままだった。
ハル自身の中にも、新しい問いが芽生えていた。
――大異変より先に、迷宮があった。
ならば、あの脈打つ壁は。あの発光する紋様は。そして、秤の手という力そのものは――一体、何を測るために生まれたものなのか。
答えの出ない問いを抱えたまま、ハルは痺れの残る右手を見下ろし、それから夜の街へと目を戻した。




