名前が一つ出てきただけだ
伸ばした右手が、崩れゆく男の襟首を掴んだ。
軽くする暇はない。掴んだ勢いのまま、痺れの限界を超えた右腕で無理やり重さを乗せる――地面に叩きつける、それだけの単純な話だ。骨の軋む音がして、男は動かなくなった。
残った影が、二つ、三つ。だが仲間の頭株が地に伏したのを見た瞬間、雑兵どもの足並みは崩れていた。統一されていた装備の男たちが、蜘蛛の子を散らすように路地の闇へ引いていく。誰も深追いはしてこなかった。
「……終わった、のか」
膝が笑っている。右手はもう感覚がなかった。焼けた鉄の芯を突っ込まれたまま、そこだけ別の生き物のように熱を持ち続けている。
「終わったよ。少なくとも今夜は」
物陰からミラが姿を現した。声はまだ強張っていたが、目の光は失われていない。近づいてくる途中、彼女の視線がだらりと下がったハルの右手に留まった。
「……その手、まだ動くのかよ」
「動くさ。動かねえと困る」ハルは答えになっていない答えを返した。感覚のない指を、意地でも一度握って開いてみせる。「そっちこそ、爪の痕、まだ疼くんじゃねえのか」
「お互い様だ」ミラは肩をすくめかけて、途中で顔をしかめた。それだけで、これ以上の心配は互いに要らないという合図になった。
倒れた頭株の傍らに屈み込むと、ミラはその懐から何かを引き抜いた。
「……なんだ、それ」
「さあね。逃げる前に、これだけは持ってっちゃもらえないみたいだけどさ」
ミラの手の中にあったのは、油紙で包まれた書付だった。端が焦げたように黒ずんでいる――誰かがこれを燃やす前に、乱闘が割り込んだのだろう。開いた紙面には見覚えのある紋が捺され、名らしき記号と数字の列が並んでいる。
「……これ」ミラの声が低くなった。「ギルドの裏帳簿と同じ並びだ。あたしがカウンターの裏で見た、あの利率の書き方」
ハルは痺れた右手をだらりと下げたまま、左手だけで紙を覗き込んだ。数字の羅列に混じって、聞き覚えのある符丁がいくつか。グレタの出張所の帳面でよく目にする略号だ。
「……上等だ」ハルは吐き捨てた。「私兵まで動かして、燃やして隠したかった代物がこれかよ」
その足で向かったのはライグの店だった。荒らされた棚はそのままだが、店主自身は無事らしく、扉を開けた途端、疲れた顔がわずかに強張った。
「――生きてたか」
「ライグのおかげじゃねえけどな」ハルは書付を突きつけた。「これに見覚えは」
ライグは受け取り、灯りに透かすようにして紙面を追った。指の動きが徐々に遅くなる。
「……この符丁」ライグの声から、いつもの軽さが抜け落ちていた。「ギルド出張所の内々の割り当て記号だ。しかも――」指先が一箇所で止まる。「これ、上の方の名だ。査定官なんぞの下っ端じゃねえ。もっと上――出張所を束ねる側の名だよ」
グレタの顔が頭を過った。あの女の籍剥奪だの何だのという脅し文句が、急に安っぽく思えてくる。出張所を束ねる側がこの様なら、末端の小役人の睨みなど怖くも何ともない。
「借金の利率と、荷の横流し。両方とも同じ筋から出てたってわけかよ」
ライグは何も答えず、しばらく紙面を睨んでいた。やがて長く息を吐き、苦い顔のまま紙を折りたたんだ。
「……知らねえし、知りたくもねえって、俺はいつも言ってきた」ライグは低く言った。「だがこいつは、俺一人で抱えるには重すぎる」
「なら、どうすんだよ」
「これを表に出せば、少なくとも上の連中は今夜みたいな真似を続けられなくなる。俺の伝手を使えば、然るべきところに渡せる」ライグは書付を懐にしまい、ハルとミラを交互に見た。「その代わり――」
言葉を切って、ライグは一度だけ目を伏せた。何かを差し出す前の、値踏みするような間だった。
「これで少なくとも、お前らの借金は帳消しにさせてやる」
苦い顔のままの声だった。恩着せがましさも、安堵もない、ただ重い借りを返すような言い方だった。
ミラが息を呑んだ。すぐには言葉が出てこないらしく、口を開きかけては閉じるのを二度繰り返してから、ようやく声を絞り出した。
「……本当かよ、それ」
問い詰めるような響きではなかった。半分は疑い、半分は縋るような、そんな声だった。
「信じらんねえほど都合のいい話じゃねえか」ハルは皮肉を吐き捨てながら、感覚のない右手を見下ろした。この手一本のために背負ってきた借金だ。その重さが、今の今まで肩に食い込んでいたことに、なくなりかけて初めて気づく――そんな間抜けな話があるかよ、と思いながら。
「……だが、この紙一枚で片がつく話じゃねえ。名前が一つ出てきただけだ。これの向こうに、まだ何人いるのか――俺にも見当がつかねえ」




