私兵の紋
フードの人物が言葉を切り、路地の暗がりへ溶けるように消えてから、まだいくらも経っていなかった。灰塚の荷の正体、貴族の一部とギルド上層部の一部による横流し――重すぎる話をどう飲み下せばいいのか分からないまま、ハルとミラは宿へと足を向けた。今夜だけは、何も考えずに横になりたかった。
だが、戻ってみればそれどころではなかった。
宿の戸は、蝶番から半分外れてぶら下がっていた。
戸口の柱に、蝋を焼き固めたような跡が押し付けられている。灰塚の荷を包んでいた蝋封と、同じ意匠だった。ただの荒らしなら気づきもしない染みだが、ハルの目には焼き付いた。誰かが、わざわざ見せつけるために残していったとしか思えない。
ハルは戸口で足を止めた。隙間から見える土間は、荷物という荷物がひっくり返され、藁布団まで裏返されている。物盗りの荒らし方じゃない。何かを探した跡だ。
「……金目のもんなんざ、最初から無かったのにな」
ミラの声から、いつもの軽さが抜け落ちていた。
宿の主人が階段の下で震えていた。「身なりの良い男が三人……剣を差してた。金は取らなかった。あんたらの荷物だけ、根こそぎ探して出て行ったよ。出しなに、その柱に何か押し付けてったが……何のつもりか知らねえ。頼むから、もう泊めないでくれ」
追い出すように言われ、二人は路地に立たされた。とっぷりと日は暮れて、あたりは闇に沈んでいた。
頭の片隅に居座っていた返済期限の数字も、グレタの籍がどうのという小言も、今はもうどこかへ押しやられていた。皮肉なことに、命を狙われている方がまだ分かりやすい。飯代の心配なんぞ、今この瞬間はどうでもよかった。
「ライグだ」ハルは低く言った。「あいつに聞く」
通りに出て、ふたつ角を折れたところで、ハルは足を止め、ミラの背を軽く押して物陰に引っ張り込んだ。
「……あれ」
大通りの向こう、剣を提げた男たちが三人、等間隔で肩を並べて歩いていく。冒険者の乱れた足取りとは違う、揃った歩調。誰かを探すというより、見せつけるための歩き方だった。
厄介なことに、心当たりがあった。灰塚の入口で感じた、あの視線――背後から何かに見られている気がした、あの時の正体が、こいつらだったとしたら辻褄が合う。深部から誰も戻ってこなかったという依頼にしても、道理だ。口を封じるだけの手駒が、最初から揃っていたということだ。
悪態を挟む余裕もなく、二人は路地から路地へと縫うようにライグの店へ向かった。
店に着くと、灯りは点いていたが、様子がおかしかった。ライグは帳簿を革袋に叩き込みながら、震える手で戸口の閂を確かめている最中だった。
「――逃げる気か」
ライグの手が止まった。振り向いた顔は、いつもの軽さの欠片もなかった。
「知らねえし、知りたくもねえって、俺は言ったよな」ライグの声は掠れていた。「なのに、あのフードの奴が俺の店を仲介先に選んだ時点で、俺はもう終わってたんだ」
「何をした」
ライグは答えなかった。俯いて、革袋の口を固く縛った。
「……俺の店にも、女房と同じくらいの歴史がある」ようやく出てきた声は、ひどく低かった。「今日、剣を持った連中が来た。お前らの居場所を聞かれた。俺は――教えた。教えなきゃ、俺の首が先に落ちる」
土間に、重い沈黙が落ちた。
信じたかった、というのとは少し違う。ライグはただの情報屋だ。義理も人情も、金次第で軽く傾く――そんなことは端から分かっていたつもりだった。それでも、腹の底で何かが冷えていくのを、ハルは止められなかった。
「上等だ」ハルの声は絞り出すようだった。「ライグも、そっち側だったってわけかよ」
「違う」ライグは初めて顔を上げた。「教えたのは、宿の場所だけだ。今夜のうちに動く、って話も聞いた。だから――こうして荷物まとめてる。俺なりに、これで筋は通したつもりだ」
「筋、か」ハルは吐き捨てた。責めたところで、消えた荷物が戻るわけじゃない。それに――こいつも、こいつなりに首の皮一枚で踏みとどまったのだと、頭のどこかでは分かっていた。分かっていて、腹の底の冷たさは消えなかった。
「奴らの腰の剣、鞘に紋が入ってた」ライグは目を逸らさずに言った。「見たことのない紋じゃねえ。灰塚の荷にあったのと、同じ意匠だ」
ミラの喉が動いた。「――裏帳簿の利率と、同じ筋ってわけかよ」
「知らねえよ、そこまでは」ライグは首を振った。「知りたくもねえ。だが――」
言葉が途切れたその時、店の外の暗がりで、複数の足音が石畳を踏む音がした。整った、迷いのない足音。冒険者の乱れた歩き方とは違う。
ハルとミラは同時に戸口へ向かったが、遅かった。
暗がりの路地の両端に、それぞれ影が立っている。三人、いや四人。剣を提げ、装備は統一され、体つきには余裕がある。ただの取り立て屋でも、荒くれの冒険者でもない。
先頭の男が一歩前に出た。ランプの灯りが、その男の鞘に彫られた紋を照らし出す。灰塚の荷を包んでいた蝋封と、同じ意匠だった。
「……ギルドの連中じゃねえ」ハルの声から、悪態すら出てこなくなっていた。「貴族の私兵ってやつかよ」
退路になる路地の反対側でも、足音が止まった。囲まれている。逃げ場は、どこにも残っていなかった。




