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掴み屋ハル ―手のひらひとつの、生存戦線―  作者: SG


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触れちゃいけねえ筋

ライグの店は、いつもと違う臭いがした。


木戸が半分外れ、蝶番から力任せに引き剥がされた跡が生々しい。棚から叩き落とされたらしい壺の破片が土間に散らばり、奥の帳場は引き出しごと引きずり出されて中身が床にぶちまけられていた。


「……おい」


ハルが声をかけるより先に、奥から人影が飛び出してきた。ライグだった。いつもの馴れた薄笑いはどこにもなく、目の下には濃い隈が浮いている。


軽口の一つも出てこないこの男を見るのは、初めてだった。


「お前ら、来るなら先に声かけろって……!」


言いかけて、ライグは自分の声の大きさに驚いたように口をつぐみ、戸口の外を一度、素早く確かめた。誰もいないと分かってから、ようやく肩の力を抜く。だがその手は、まだ小さく震えていた。


「何があった」ハルは荒れた土間を見回した。「盗っ人にしちゃ、金目のもんに手ぇつけてねえな」


床に散らばった硬貨がそのままだった。荒らした側の狙いは、明らかに金ではない。


「……知らねえよ、そんなもん」


ライグの声には、いつもの伝法な軽さがなかった。ハルは奥歯を噛んだ。この男が言葉を濁す時は、決まって知りたくないことを知っている時だ。


「知らねえで、この様か。ライグ、この面で商売してるんじゃなかったのかよ」


「うるせえ」ライグは吐き捨てたが、力はなかった。「その面のせいで、こうなってんだよ」


街の様子も、いつもと違った。ここへ来るまでの道すがら、露店の男が声をひそめてハルの背を目で追い、通りすがりの女がミラの顔を見て何か囁き合っていた。噂は消えていない。ガロが広めた「仲間を見捨てた」という逆さまの話は、まだ街の底に澱のように残っている。だが今日、視線に混じる色は前と少し違う気がした――侮蔑だけでなく、値踏みするような何かが。


「あんたが襲われたのか、ライグ」ミラが土間に片膝をつき、割れた壺の破片を拾い上げた。「それとも――誰かへの見せしめか」


ライグは答えなかった。答えないことが、答えだった。


「灰塚の荷の件だな」ハルは声を落とした。「あの蝋封の紋だろう。誰かが、ライグの口を塞ぎに来やがったんだろうが」


「……知らねえって言ってるだろうが」


「知らねえ奴が、こんな怯えた面するかよ」


ハルは荒れた帳場に歩み寄り、引き出しの残骸を見下ろした。焼けるような痺れが右手にまだ残っている。だがそれ以上に、腹の底がひやりとした。前金を先払いしてまで人を送り込む依頼主、姿を見せぬ観察者、そして今度は口を塞ぎに来る誰か。線が一本に繋がりかけている――そんな予感が拭えない。


「なあ」ミラが割れた壺を戻しながら、声を硬くした。「あんたも、脅されてるんだろ。だったら余計に、こっちにも教えといた方がいいんじゃないの。知ってて黙ってて、次に来るのがあたしらの店だったら困るだろうし」


しばらく、ライグは黙っていた。震える指で、床に落ちた自分の帳簿を拾い上げる仕草だけが続いた。


「……お前らも懲りねえな」ようやく、掠れた声が出た。「知らなきゃよかったこと、首突っ込んで知りたがる」


「知りたくて知りたがってるわけじゃねえよ」ハルは短く返した。「巻き込まれた側だ、こっちは」


ライグは長く息を吐いた。観念したような、それでいてまだ迷っているような吐き方だった。


「……あの紋はな」


声が、これまでよりもさらに低くなった。


「貴族の中でも――触れちゃいけねえ筋のもんだ」


言った瞬間、ライグ自身が自分の言葉に驚いたように目を見開いた。慌てて口元を手で覆う。


「……いや。今のは、聞かなかったことにしろ」


その手の震えは、さっきよりも大きくなっていた。


それ以上、ライグの口から何も出てくる気配はなかった。ハルとミラは荒れた帳場を後にし、傾きかけた木戸を潜って外に出た。


夕闇が路地の隙間に滲み始めていた。人通りの少ない道を戻る途中、ハルはふと首筋にひやりとしたものを感じて足を止めた。


「……ミラ」


「気づいてる」ミラの声から、いつもの軽さが消えていた。「さっきから、誰かに見られてる」


言い終わるより早く、路地の暗がりから何かが低く唸りを上げて飛んできた。ハルは考えるより先に体を沈める。石つぶてが頬の産毛を掠めて抜け、背後の土壁に叩きつけられて乾いた音とともに砕け散った。


「――伏せろ!」


叫んだ時には、ミラも既に低く身を沈めていた。二人して軒先の物陰に滑り込み、息を殺す。だが次の礫は飛んでこなかった。しばらくして、路地の奥から足音が一つ、逃げるように遠ざかっていくのが聞こえただけだった。


「……牽制、ってやつか」ミラが壁に背をつけたまま、低く吐き捨てた。「本気で仕留める気なら、今ので終わってねえよ」


「脅しだ」ハルも声を落とし、痺れの残る右手で壁を押して身を起こした。「これ以上首突っ込むな、ってな」


膝を伸ばし、二人はゆっくりと物陰から周囲を窺った。振り返っても、路地の陰に人影らしきものはもう見えない。だが視線だけは、確かについさっきまでそこに張り付いていた。ライグの店を荒らした誰かは、まだこの近くにいるのかもしれない。――知りたくて知りたがってるわけじゃねえ。さっき自分で言った台詞が、今になって薄ら寒く効いてくる。巻き込まれた側だと嘯いたところで、こっちの命まで安全だという保証はどこにもない。


ハルは痺れの残る右手を握り直した。使い物になるかは怪しいが、握れるというだけで、今は少しだけ気が紛れた。


「そういや」ミラが乾いた声で言った。軽口のふりをしていたが、目は油断なく路地の奥を睨んでいた。「返済の期限、今日だったか明日だったか、もうそんなことも数えらんなくなってきたね」


「知るかよ」ハルは短く吐き捨てたが、笑いは出てこなかった。「期限より先に、首が繋がってるかどうかの方が怪しくなってきやがった」


「そういや、もう一つ厄介事があったな」ハルは思い出したように呟いた。「ギルドの受付で、グレタに睨まれた件も片付いちゃいねえ。今度こそ籍を切るとか抜かしてたぞ、あの女」


「あー……」ミラが顔をしかめた。「借金と脅しと籍剥奪、三重苦じゃねえか。せめて一個ずつ片付けさせてくれっての」


線は、確かに一本に繋がりかけている。だがその線の向こうに何がいるのか、今のハルには見当もつかなかった。


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