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掴み屋ハル ―手のひらひとつの、生存戦線―  作者: SG


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顔のない依頼人

「……また来やがったのか、あんた」


低い声だった。男か女かも判然としない、抑えた響き――三日前、路地裏で聞いたのと同じ声だ。ハルは痺れた右手を庇うように半歩下がり、左手だけを開いて構えた。隣でミラも足元の瓦礫を蹴らないよう、静かに重心を落とす。


フードの人物は名乗らなかった。それどころか、こちらの誰何にはまるで頓着せず、静かに用件だけを口にした。


「今日は、少し先に進める。――前金の残りだ」


懐から小さな革袋を取り出し、足元の瓦礫の上に置く。中身を確かめろとも受け取れとも言わない。ただ、そこに置いただけだった。


ハルは動かなかった。「――何のつもりだ」


「先日、灰塚の深部から荷を運んだな。ライグの仲介で」


心臓が跳ねた。あの依頼を知っている者は多くない。仲介人の名まで口にする以上、ただの噂好きではないということだ。


「――だったら何だよ」


「その荷、蝋の封を見たはずだ。見慣れぬ紋があったろう」


淡々とした問いだった。答えを急かすでもなく、ただ確かめるような口ぶり。


「見たさ。それがどうした」ハルは吐き捨てた。「あんたが誰で、何を知りたくて、こっちに何をくれるつもりなのか――そいつを先に言えよ。でなきゃ話す義理はねえ」


「あんたの正体も分からないまま、ぺらぺら喋るほどこっちも間抜けじゃないっての」


ミラが横から口を挟む。表向きの愛想はとうに消え、声には刃のような硬さが混じっていた。


フードの奥で、微かに息を吐く気配がした。笑ったのか、呆れたのか、判別はつかない。


「名乗る気は、まだない。すまないとは思うが」


「すまないで済むかよ」


「ただ――」フードの人物は足元の革袋を目で示した。「それは前金の残りだ。受け取るかどうかは好きにしろ。だが、受け取れば話は進む」


初めて示された、具体的な形だった。ハルは奥歯を噛んだ。


「前にも、似た筋から声がかかったことがあるはずだ」フードの人物は続けた。「依頼主の顔を見ぬまま、護衛を任されたことが」


灰塚の裏依頼――ガロと組む前、まだミラとも組んでいなかった頃に受けた、あの正体不明の護衛の仕事のことだ。忘れていたわけではない。忘れようとしていた記憶が、静かに引きずり出される感覚があった。


「……あれも、あんたの差し金か」


「同じ筋、とだけ言っておく」


答えになっていない。だが、繋がりを認めたことだけは確かだった。


「乗るか乗らないかを選ぶ余地はある。今すぐ答えを出せとは言わない」


ハルは奥歯を噛んだ。素性も目的も分からない相手の話に乗ることの危うさは、灰塚の裏依頼で嫌というほど思い知っている。だが同時に、返済期限は目と鼻の先だ。


「――二日後だ」ミラが低く呟いた。強がりの軽口はどこにもなかった。「二日後までに耳を揃えて返せなきゃ、あたしらはギルドの借金奴隷だよ。悠長に選り好みしてる余裕なんざ、端からありゃしない」


飯にも寝床にもならない意地を張っていられるほど、懐は温かくない。


――乗るか、乗らないか。


答えが出ないまま黙り込んだハルを見て、フードの人物はそれ以上待たなかった。


「急がなくていい。だが、これだけは覚えておけ」


一歩、後ろへ下がる。闇に紛れる寸前、その声だけがはっきりと届いた。


「あの蝋封の紋――どこの家のものか、知っているか」


答えを待つ声ではなかった。問いを投げ捨てるような、確認のための言葉。ハルが口を開く前に、人影は路地の暗がりへ溶けるように消えていた。足音一つ、残らなかった。


「……何だよ、あれ」


ミラが呟く。強がりの軽口はどこにもなかった。足元に残された革袋だけが、やけに現実味を持ってそこにあった。


ハルは屈み、痺れの残る左手で袋を拾い上げた。ずしりと、見た目より重い。皮肉なことに、その重さにも覚えがあった。


あの時――灰塚を出てすぐ、ライグに荷を引き渡す寸前に感じた手応え。外側の大きさから思っていたよりも、ずっと重かった感触。革袋の中身は布と蝋に隠されたまま、正体を明かすことなく男の手へと消えていった。


灰塚の奥で、壁が脈打つように震えていたあの晩の気配と、どこか似ている。あの時も、見た目と中身が食い違う何かに触れた気がした。根っこのところで、同じものに繋がっている――そんな予感が、拭えなかった。


「……どこの家の紋、か」


ハルは呟き、痺れの残る右手を握り込んだ。焼けるような痛みが、久々に別の意味を持って走った気がした。


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