水面が動く音
硬貨を数え終えるのに、そう時間はかからなかった。数えるまでもないくらい、少なかったからだ。
「……これだけかよ」
ハルは手のひらに乗った硬貨を睨みつけた。左手だ。右手はまだ包帯の下で疼いている。指を曲げようとするだけで、焼けた針を押し込まれたような痛みが走った。
「言うだけ無駄だっての。もう何回数えたって増えやしないんだから」
向かいに座ったミラが、安酒の入った欠け椀を傾けながら肩をすくめる。目の下の隈はまだ薄く残っていたが、口調はいつもの軽さを取り戻していた。
「借金の期限は?」
「二日後」ミラは即答した。数字だけは正確に頭に入っているらしい。「ライグの野郎、最短でも三日はかかるって言ってたろ。ちょうどその通りに食っちまったってわけさ。灰塚の主とやり合った分、少しは上乗せされると思ったんだけどね」
「されなかったろ。もう見た」
「されなかったねえ」
二人同時にため息をつき、それが妙にツボに入って、どちらからともなく短く笑った。笑ったところで懐が温まるわけでもないが、笑わなきゃやってられない。
「明日からどうする。またどっかの雑用か、瓦礫漁りか」
「肩はまだ本調子じゃないし、ハルの右手もその調子だ。派手な依頼は無理だろうね」ミラは椀の中身を覗き込みながら言った。「地道に稼ぐしかないんじゃない。……らしくもないけどさ」
「柄じゃねえよな、地道になんて」
「だから言ってんじゃないか」
軽口の応酬をしていると、扉が軋んで見慣れた猫背の影が入ってきた。オルグだ。杯も持たずに真っ直ぐこちらへ寄ってくるあたり、世間話をしに来たわけではなさそうだった。
「――兄ちゃん、嬢ちゃん。しばらく見ん間に、また一段と生きが良くなったもんじゃのう」
「あんたに会いたくて生きてたわけじゃねえよ」ハルは吐き捨てるように言ったが、椅子を一つ引いてやった。「座れよ。奢りはしねえけどな」
オルグは笑いながら腰を下ろすと、しばらく黙って二人の顔を交互に見た。それから、酒場の隅、誰も聞いていないのを確かめるように声を落とす。
「近頃、街で兄ちゃんの話をする者が増えとるわい」
「悪い噂ならもう聞き飽きたっての」
「いいや」オルグは首を振った。「あの歪んだ噂とはまた違う響きでな。灰塚から、化け物一匹分の重さの何かを持ち帰った男がいる――そんな言い方をする者が、ぽつぽつ出てきとる」
ハルは黙って腫れた右手を見下ろした。グレタに二束三文で切り捨てられた戦利品のことを思うと、笑えもしなかった。
「へえ。だったら査定官の目でも変えてくれりゃ助かるんだけどね」ミラが皮肉っぽく言う。
「噂と勘定は別の生き物じゃからな」オルグは杯もないのに口元を拭う仕草をした。「じゃが、水面が動き始めたのは確かじゃ。……何かが、兄ちゃんを見ておるかもしれんぞ」
――そういや、四話の頃のあの妙な護衛依頼、結局どこの誰が出した話だったか、いまだに分からずじまいだったな。ハルはふと、灰塚に潜って早々に押し付けられた、あの依頼主不明の仕事のことを思い出した。前金なし、護衛対象非公開、そのくせ報酬だけは妙に良かった話。あれから幾つも山を越えたはずなのに、あの依頼の出所だけは今もぽっかり空白のままだ。今度の観察者とやらも、同じように名も顔も隠したままのつもりか。
意味深な忠告だけを置いて、オルグはそれ以上語ろうとしなかった。核心には触れず、忠告止まりで話を打ち切る――いつもの調子だ。だが、ハルはその目の色が一瞬だけ真剣に沈んだのを見逃さなかった。
――あの目はいつも当たる。厄介なことに、な。
悪態の一つも、すぐには出てこなかった。
結局、その日の稼ぎ方について大した結論も出ないまま、二人は酒場を出た。日は落ちかけ、路地裏には夕闇が滲み始めている。
「地道に、地道にね」ミラがぼやきながら先を歩く。「ま、腹が減ってちゃ悪態も浮かばないし。今日はこれで――」
言葉が途中で止まった。
崩れかけた壁の陰、明かりの届かない路地の奥に、フードを目深に被った人影が立っていた。動く気配もなく、ただそこにいる。ハルは反射的に痺れた右手を握りかけ、痛みに顔をしかめた。
「……誰だよ、あんた」
誰何の声に、フードの奥が僅かに動いた。それが、声を発する前触れだと分かるまでに、さほど時間はかからなかった。
「――掴み屋。少し、話がある」




