殺す、と決めた一撃
視界の端の白い点滅が、戻らない。
右手は、もう掴んでいるというより、そこに縫い付けられているような感覚だった。指の感覚はとうに死んでいる。それでも、離せば終わりだということだけは、腕の芯が知っていた。
怪物の前脚は、軽くなったはずなのに、まだ何かに引っかかっている。重さの底に、もう一枚別の重さが沈んでいるような、嫌な手応え。金属とも骨ともつかない硬い芯が、掌越しにごりりと軋む。
――知るかよ、そんなもん。
考えている暇はなかった。前脚が軽くなったことで、継ぎ接ぎの巨躯がぐらりと傾ぐ。紋様の明滅が一瞬乱れる。今しかない。
殺す。今日初めて、はっきりとそう思った。生き延びるためだけじゃない。この化け物を仕留めなきゃ、ミラがまた狙われる。それだけで十分だった。
ハルは軋む膝に力を込め、瓦礫の陰へミラの体を滑り込ませた。ぐったりと軽くなったその体は、いつもの憎まれ口をひとつも寄越さなかった。
――らしくねえぞ、まったく。憎まれ口の一つも叩けねえほど参ってるってのか。
毒づいて、無理やり気持ちを切り替える。詫びる言葉は、後でいくらでも聞かせてやればいい。今、ここで終わらせなきゃ、その「後」自体が来ない。
怪物が大きく傾いだ、その一拍。ハルは前脚に食い込ませたままだった右手を、渾身の力で引き剥がした。焼けた鉄を握らされていたような激痛が、指先から肘まで一気に駆け上がる。
止まっている暇はない。引き剥がしたその右手を、そのまま自分の胸に叩きつけるように押し当てた。
軽く。羽根より軽く。
崩れかけた怪物の懐へ、糸の切れた人形のように飛び込む。紋様に彩られた顎が迫るが、今のハルに追いつける速さではない。
――ここだ。
狙うのは、継ぎ接ぎの境目、脈打つように光る一点。
当たる、その刹那。
ハルは右手を胸から引き剥がすと同時に、固く握り込んだ左の拳へそれを叩きつけるように押し当てた。指の感覚はとうにない。それでも、最後に残った神経を、その一点にだけ集めた。
軽さを、重さに。限界を超えて、もう一段階。
腕の中で、何かが本当に千切れる音がした。骨か、腱か、秤の手そのものが軋む音か、確かめる余裕はもうない。
「――上等だ」
声にならない声で吐き捨て、右手を離す間も惜しんで、ハルは全体重の何倍もの質量を乗せた左の拳を、継ぎ接ぎの境目へ突き入れた。
轟音。
怪物の巨躯が大きく仰け反り、継ぎ接ぎの喉から獣とも悲鳴ともつかない断末魔が迸る。紋様が一際強く明滅し――やがて、糸が切れたように光が沈んでいく。闇の奥へ引きずり込まれるように消えていくその様は、絶命の証なのか、それとも別の何かがまだそこに残っているのか、判じる術はなかった。
その光が完全に途切れるのを、ハルは最後まで見届けられなかった。
右手の激痛が脳天まで突き抜けたと思った次の瞬間、視界が丸ごと暗転する。
崩れ落ちる怪物の重さも、瓦礫を打つ音も、もう耳には届かなかった。
ハルの意識は、そこで途切れた。




