灰塚の主
背後の気配は、ついに追いつくことはなかった。だがそれは安心の理由にはならなかった。何かがずっと同じ間合いを保って追ってきている――そういう不気味さの方が、まだ質が悪かった。
荷を背負ったハルの肩に、蝋で封じられた重みが食い込む。軽くはない、と言った男の言葉は嘘ではなかった。
広間に出た瞬間、饐えた臭いが濃くなった。
そこに、それがいた。
四脚とも六脚とも言い切れない、継ぎ接ぎのような体だった。関節の数が左右で違う。獣の顎と、虫の甲殻と、得体の知れない何かの断片が、無理やり一つの生き物として縫い合わされている。そして何より目を引いたのは、その体表にうっすらと浮かぶ発光する紋様だった。
――前に見た。
意識を失う寸前、灰塚の闇の奥で見たあの紋様だ。見間違いだと切り捨ててきたものが、今、目の前で息をしている。
「……ミラ、下がれ」
「言われなくても」
声は強がりでも軽口でもなかった。ミラの手には既に得意の小刀が握られている。狙いを外したことのない腕だ。投擲は一瞬で放たれ、紋様の隙間――柔らかそうな喉元を正確に射抜いた。
弾かれた。
刃が届く寸前、紋様が強く明滅し、まるで見えない壁に当たったかのように小刀が弾き飛ばされる。ミラの顔から血の気が引いた。
「……冗談だろ」
「本気にしろ、あれは」
ハルは踏み込みざま、右手で怪物の前脚を掴んだ。掴んだ、はずだった。だが指先に返ってくる感触がおかしい。重さが、まるで動かない。今までの格上とは違う。「浅くしか効かない」のではなく――何も伝わっていない。まるで最初から、掴んだうちに入っていないかのようだった。
振り払われる前に飛び退いたのが、せめてもの反応速度だった。だが直後、横薙ぎに払われた前脚の一撃をまともに避けきれず、地面を転がる羽目になる。息が詰まる。焼けるような痺れが、今度は右手だけでなく肘の奥まで這い上がってきた。
「ハル!」
ミラの声に振り向く暇はなかった。怪物の間合いはこちらの想定より一回り広い。二撃目が来る、その軌道を読むより早く、ミラが横から割って入っていた。
「――っ」
爪先が、庇うように前に出たミラの肩から脇腹を薙いだ。鈍い音がして、小柄な体が瓦礫の上に叩きつけられる。
「ミラ!」
駆け寄る足が縺れた。抱き起こした体はぐったりと重く、呼びかけにも反応が返ってこない。息はある。だが、意識はない。
顔を上げれば、紋様を光らせた怪物がゆっくりとこちらへ向き直るところだった。
右手はもう、握り込むことすら痛みでままならない。左手だけで、意識を失ったミラを支えながら、この化け物と向き合う以外に道はなかった。
背後の道は塞がれ、頼れる相棒は動かず、残った手は限界を通り越している。
――上等だ、なんて軽口すら、今は出てこなかった。




