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掴み屋ハル ―手のひらひとつの、生存戦線―  作者: SG


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前金と、見知った顔

「今度は、前金がある」


安酒場の隅、その一言でハルは杯を持つ手を止めた。


向かいに座る男は、灰塚の裏依頼を持ち込んできた前回の伝手とは別人だった。名はライグ。スラムの外れで顔の利く情報屋で、借金の取り立てから裏の仲介まで、汚れ仕事で食っている手合いだ。素性の知れない誰かの伝言だけを寄越した前の依頼主とは違い、こいつの顔と名は、この界隈で知らない者はいない。


「胡散臭さはそのままだけどな」ライグは革袋を卓に置いた。中で鈍い音を立てたのは、間違いなく硬貨だ。「今回は違う。依頼主の使いとして、前金の半分をここに置いていく。残りは戻ったら払う、との話だ」


ミラが袋を持ち上げ、重さを確かめるように振った。


「へえ。前金なし・依頼主不明・護衛対象非公開――あの時と何もかも同じ話だと思ってたけど」ミラの目が細くなる。「今度はちゃんと金を先に寄越すし、あんたの面も割れてる。それだけで、多少はマシに見えるじゃないの」


「マシに見える、だけだ」ライグは肩をすくめた。「中身がまともだとは、俺も言わねえよ」


「けどな」ライグは付け足すように声を落とした。「お前らを謀って得することもねえ。俺はこの面で商売してんだ。変な真似すりゃ次から誰も声掛けてこなくなる。それだけは信用しろ」


ハルは袋の中身を一瞥し、それから男の顔を見た。


「――で、依頼の中身は」


「灰塚、深部。運んでほしい荷が一つ。中身は聞くな、って話だ。期間は最短で三日。ただし……」


ライグは一拍置いた。目だけが、ふっと逸れる。


「今まで受けた奴は、誰一人戻ってきてねえ。それはもう聞いてるだろ」


「聞いてるよ、耳にタコができるくらいにな」


ハルは吐き捨てるように言って、袋を懐にしまった。それから、思いついたように付け加える。


「――荷の中身は聞くな、だ? だったら重さぐらいは教えろよ。担ぐのはこっちだ」


ライグの喉が、わずかに動いた。「……軽くはねえ。だが二人がかりで運べねえほどでもない、との話だ。それと」


一拍置いて、いつもの馴れた調子が声から抜け落ちる。


「布でぐるぐる巻きにされて、蝋で封がされてた。積む時に俺も一度見ただけだが――あの紋、見たことがねえ。ギルドのもんでも、この街の貴族のもんでもねえ。あれだけは、言っとく」


「知らねえ紋、ね」


ハルは短く鼻を鳴らしたが、腹の底では別のことを考えていた。ギルドでも貴族でもない何かが、戻れない依頼に大金を積んでまで、それを運ばせたがっている。


ライグは肩をすくめ、素早く話を切り上げた。「まあ、聞くな。俺もそれ以上は知らねえし、知りたくもねえよ、正直な」


戻ってこない依頼。前金の半分。素性の知れた仲介人。見覚えのない紋の封。差し出された条件はたしかに前と違う――だが違うということが、安心につながるわけではなかった。むしろ、誰かが本気で人を送り込みたがっている、という重みが増しただけだ。


小屋の戸に書かれた赤い炭の日付が、頭の隅にちらつく。あと五日。


「行くよ」


ミラが立ち上がった。強がりの軽口はどこにもなかった。


「……ハルの手、もつのか」ミラが振り返らずに言った。


「もたせるさ。もたせるしかねえだろ」


ハルは腫れの引ききらない右手を握り込み、開いた。焼けるような痺れが、握るたびに指の先まで走る。上等な体じゃない。だが、贅沢を言える立場でもなかった。


二人は灰塚の入口へと歩き出した。


途中、瓦礫の隙間から瘦せた影が飛び出した。犬ほどの図体に、不釣り合いなほど大きな顎――灰塚の外れをうろつく、下級の変異獣だった。深部の化け物に比べれば取るに足らない、道端の邪魔者に過ぎない。


ミラが放った瓦礫の欠片が鼻面を弾き、怯んだ一瞬にハルが踏み込む。利き手で首筋を掴み、軽く。抵抗なく浮いた図体を地面に叩きつける寸前、もう一度重さを戻す。鈍い音がして、影は動かなくなった。


「……小手調べにはちょうどいいか」


ハルは手を振って痺れを追い出すように開いた。まだ大丈夫だ。だが、これがこの先何度も積み重なることは分かりきっていた。


饐えた臭いは前より濃く、静寂は前より重い。


足元の瓦礫を踏むたび、乾いた音が反響する。それだけのはずだった。だが数歩進んだところで、ハルはふと足を止めた。地面――というより、迷宮そのものが、ごく微かに脈打った気がした。石の奥、壁の向こう、聞こえるはずのない何かの鼓動。前に感じたあの違和感と同じだ。気のせいだと切り捨てるには、あまりに規則正しい。


「……ミラ、今の分かるか」


「ん? 何が」


「今、足の裏から――いや、いい。気のせいかもしれねえ」


奥へ続く闇に足を踏み入れる直前、ハルはもう一度足を止めた。


「……ミラ」


「分かってる」


背後――今しがた通ってきたはずの道の奥で、何かが動いた気配がした。振り返っても、瓦礫と闇があるだけだ。だが、たしかに何かが息を潜め、こちらを窺っている。


腫れの引ききらない右手を握り込み、ハルは奥歯を噛んだ。


二人は顔を見合わせ、それ以上言葉を交わさぬまま、灰塚の深部へと足を進めた。


背後の気配は、消えなかった。


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