大異変の前から
「――大異変の前から、あの迷宮だけは様子が違ったんじゃ」
酔いに濁った声が、隣の卓からぽつりと漏れた。
杯を傾けかけていたハルの手が、途中で止まる。
「……今、何つった」
「なんじゃ、聞いとったのか」
オルグは目を細めてこちらを見たが、その目の奥はさっきまでの呂律の怪しさが嘘のように据わっていた。何かを見透かすような、底まで見通してくる目だ。ハルはその変わり際を知っている。あの目はいつも当たる――厄介なことに、な。
灰塚の様子がおかしいという話は、今日に始まったことじゃない。前にも別の酔いどれから似たような噂を聞いた覚えがある。だが誰もそれ以上は語らず、酒の肴のまま消えていった。オルグの目が今、それを思い出させる。
小屋の戸には今朝、赤い炭で日付が書きなぐられていた。借りた宿代と道具代、返済まであと五日。払えなければ籍だけでなく、体で払わされる。そういう街だった。
「大異変の前から様子が違う、って」ミラが片眉を上げる。「迷宮なんて、大異変で生まれたもんだろ。あんたの言う意味が分かんないんだけど」
「そう教わっとるじゃろうな、皆」
オルグは杯の中身をひと舐めして、それきり黙った。
「教わっとる、って何だよ」ハルは苛立ちを隠さず身を乗り出した。「はっきり言えよ、あんた。勿体つけてる暇が俺らにあると思ってんのか」
「はっきり言えるくらいなら、儂はとっくにどこぞの学者様になっとるわい」
オルグは笑ったが、その笑いはすぐに萎んだ。
「儂が潜っとった頃、灰塚の底で見たもんがある。あれは……大異変が世界をひっくり返す、ずっと前からあそこにあったもんじゃ。少なくとも、儂にはそう見えた」
「見えた、って曖昧すぎんだろ」
「曖昧にしか言えんから、曖昧に言うとるんじゃよ」
オルグの声が、ふっと低くなった。
「兄ちゃん、迷宮ってのはな。大異変のせいで生まれた、ってことになっとる。だが儂は、順番が逆なんじゃないかと思うことがある――迷宮が先にあって、大異変はその後についてきただけなんじゃないか、とな」
沈黙が落ちた。安酒場の喧騒がやけに遠く聞こえる。
ハルは何か言い返そうとして、言葉が出てこなかった。腹の底が、妙にざわつく。
「――儂はもう潜らんがな」
オルグはそれだけ言うと、話を切り上げるように杯を空にした。それ以上は何も語らない。核心に触れかけると口を噤む、いつもの調子だった。
「あんたの与太話に付き合ってる暇はねえよ、こっちは」
悪態は出たが、口だけの強がりだと自分でも分かっていた。ハルは炭で書かれた日付のことを思い出す。あと五日。稼がなければ、ミラも自分も干上がる。
「ハル」
ミラが低い声で名を呼んだ。からかいの響きはどこにもない。
「オルグの話が本当かどうかなんて、今のあたしらにゃどうでもいいよ。……でも、五日はどうにもならない。誰も戻ってきてない依頼だって、ハルも聞いただろ」
「聞いたよ。忘れちゃいねえ」
腫れの引ききらない右手を、ハルは握って開いた。焼けるような痺れの名残が、まだそこに巣食っている。それでも、腹が減るのは待ってくれない。
「行くしかねえだろ、結局」
「そうだね」
ミラは短く笑ったが、その目に強がり以上のものは見えなかった。
戻ってきた者が、まだ一人もいない――そんな依頼に、二人は足を向けることを決めた。




