逆さまの評判
ギルド出張所の扉をくぐった瞬間、空気が変わった。
受付待ちの冒険者たちの雑談が、ふっと止む。誰かがハルの顔を見て、隣の男に耳打ちした。「……あいつだよ、灰塚で仲間見捨てたって」。声を落としたつもりだろうが、丸聞こえだった。
「はっ」
ハルは短く吐き捨てた。反論する気力も湧かない。腹の底で怒りがくすぶっているが、ここで喚いたところで誰も聞きやしないことぐらい、スラムで骨身に染みている。
――どうせ出所は分かってる。荷を担いだまま真っ先に逃げ出したご立派な中堅様が、都合のいいように言いふらしたんだろうよ。
「ガロの野郎、口だけは達者だね。逃げ足と噂話だけは一人前ってわけだ」
隣でミラが低く吐き捨てた。普段の軽口とは違う、剥き出しの苛立ちが滲んでいた。
査定窓口の奥から、グレタが顔も上げずに声をかけてきた。
「そこの二人、灰塚帰りでしょう。持ち込みがあるならさっさと出して」
商売相手には愛想よく――ミラはそれを信条にしているらしく、口の端に愛想笑いめいたものを浮かべかけた。査定官相手にまで喧嘩を売っても得なことは一つもない、ぐらいの分別はミラにもある。
ハルは黙って、乏しい戦利品を台に置いた。爪の一部と、砕けた甲殻の欠片が二つ。命懸けで持ち帰ったものにしては、あまりにみすぼらしい。
グレタはそれを一瞥し、ペンで小突くようにつつく。
「……これだけ? 三日も潜っておいて」
「そもそも生き延びるのに精一杯で、拾ってる余裕なんてなかったんだよ」
「へえ」
グレタの声に、嘲りが滲んだ。
「噂は聞いてるわよ。仲間を見捨てて自分だけ逃げ帰った、とか」
その一言で、ミラの取り繕った愛想が跡形もなく剥がれ落ちた。
「――感じ悪いったらないね、まったく」
ミラが聞こえよがしに言い返す。目つきだけは笑っていなかった。
「逆だ」ハルは低く言った。「見捨てて逃げたのはそっちのご立派な中堅様だ。俺はこいつを――」
「事情なんて興味ないのよ」グレタは遮った。「私が見るのは持ち込まれた物と、査定表に書ける数字だけ。それ以外は、あんたがどこかで勝手に喚いてればいい」
ペン先が、乾いた音を立てて紙を叩く。
「爪、状態は並。甲殻は破損あり、これじゃ加工にも回せない。……大負けに負けて、これだけ」
提示された額を見て、ミラが眉を寄せた。
「あんた、それいくらなんでも――」
「相場よ」グレタは表情も変えない。「文句があるなら、他所へ持っていけばいいわ。もっとも、あんたたちの評判じゃ、どこも取り合わないでしょうけど」
事務的な口調のまま、こちらの心を折るような一言を平然と挟んでくる。それがこの女の一番厄介なところだと、ハルは改めて思い知った。
「――で?」
グレタは帳面をめくり、今度は別の紙を突き出した。
「宿代、三日分滞納してるわね。この査定額から差し引くと……ほとんど残らないけど」
数字を見て、ハルは声を失った。命を懸けて持ち帰った稼ぎが、指を折るまでもなく消えていく。
「知るかよ、こっちは死にかけて帰ってきたばっかりだ」
「知らないわよ、そんなの。私が管理してるのは帳面の数字だけ」グレタは初めて、ペンを置いてハルを見た。感情の見えない目だった。「言っておくけど、次にこの手の噂を耳にするようなら、査定官として上に報告することになる。働きが悪く、素行にも問題ありとなれば――籍の剥奪だって、ないとは言えないわよ」
宿代も、稼ぎも、評判も。何一つ自分の手では取り戻せないまま、じわじわと首を絞められていく。
隣でミラが、何か言い返そうと口を開きかけて――結局、言葉を飲み込んだ。
ハルはただ、痺れの残る右手を握りしめた。




