賭けるのは、この命一つ
水はない。飯もない。そして右手は、指を曲げるだけで焼けた鉄を握らされているような痺れが走る。
――上等じゃねえか。
ハルは瓦礫の陰でミラの肩を見た。血の染みは広がっていないが、顔色は悪い。動ける状態ではない。だが、動かなければ二人とも終わりだ。
闇の奥、無数の濁った目がゆっくりとにじり寄ってくる。数はわからない。十や二十では利かないだろう。囲まれれば終わり、というのは考えるまでもない道理だった。
「……ハル」
ミラが囁く。声に、いつもの軽口はなかった。
「一つしかない」ハルは低く言った。「あそこの隙間だ。人一人分しか通れねえ。あそこを抜けりゃ、光の届く広間に出る」
「ハルが囮になる気か」
「他に誰がやる。ミラはその肩で走れねえだろうが」
軽口のつもりだったが、声は自分でも驚くほど掠れていた。ミラは何か言いかけて、やめた。掠れた声の理由に、気づいたのだろう。
ハルは右手を見下ろした。感覚はほとんどない。開け、と念じても指先がわずかに震えるだけで、まともに応えない。水も食料も奪われたあの瞬間、何も掴めなかったのと同じ手だ。
――だったら、意地でも握ってやる。死んでもいない手なら、まだ使い道はある。
「先に行け。俺が抜けたら、絶対に振り返らずに走れ」
「馬鹿言うな、それじゃ――」
「知るかよ。腹減って死ぬのと、ここで二人揃って潰れるのと、どっちがマシかなんざ、考えるまでもねえだろうが」
ミラの目が一瞬揺れて、それから唇を引き結んだ。何も言わずに頷く。ハルはその背を隙間の方へ押しやると、瓦礫の上に立ち上がった。
隙間へ駆けていくミラの足音が、瓦礫を踏みながら遠ざかっていく。それが完全に聞こえなくなるまで、あと数秒。その間だけ稼げばいい。
「――おら、こっちだ! 化け物ども!」
叫んだ瞬間、闇の目が一斉にこちらへ向いた。地面を這うようにして迫る影の群れ。先頭の一体が跳んだ。
ハルは強張った指を無理やり折り曲げ、右手で自分の胸を掴んだ。焼けた痺れが腕全体を這い上がり、視界が白く濁る。それでも力を絞り出す。
――軽く。
体が羽のように浮いた。跳びかかってきた影の下を、地を這うようにすり抜ける。追ってきた二体目、三体目の爪が空を切る音を背中で聞いた。
隙間はすぐそこだ。だが後ろから濁った咆哮が追う。振り向けば、ひときわ大きな影がこちらへ牙を剥いていた。避けきれない距離。
――ならば、正面から行くしかねえ。
ハルは右手に、残った力の全部を叩き込んだ。
――重く、戻せ。
痺れが爆ぜた。腕の中で何かがちぎれるような感覚と共に、体に鉛の重みが戻る。踏み込んだ足が瓦礫を割った。放った拳が影の顎に食い込む瞬間、質量が乗った衝撃が骨まで響いた。
影が仰け反り、崩れ落ちる。だが右手はもう、指一本動かせなかった。
その勢いのまま、ハルは隙間へ体を滑り込ませた。狭い岩の間を抜けた先――淡い光が差し込む広間の縁まで辿り着いて、ようやく足がもつれた。
「ハル!」
広間の奥からミラの声が聞こえる。ちゃんと走り切ったのだと、頭の隅でそれだけを確認した。少なくとも、ここはもう化け物どもの巣くう闇の中じゃない。膝が瓦礫について、そのまま視界が傾く。
意識が薄れていく中、崩れた壁の奥――闇の隅に、何かが揺らめいて見えた。
見覚えのない紋様だった。石にも肉にも見えない、淡く発光する線が幾重にも絡み合っている。まるで、何かの言葉のように。
それが何なのか、考える余力は残っていなかった。
ハルの意識は、そこで完全に途切れた。




