掴み損ねた背中
「……嘘だろ、嘘だろ嘘だろ」
ガロの声が上ずっていた。濁った目の群れを前に、後ずさった踵が瓦礫にぶつかって甲高い音を立てる。
「引き返すぞ。いや、待て――こっちだ、別の道がある」
言うが早いか、ガロは背負っていた背嚢を担ぎ直した。中身は三人分の水袋と携行食――生き延びるための命綱だ。
「おい、待てよ」
ハルはミラを支えたまま声を張った。ミラの体重が肩に食い込み、まともに動けない。右手は握ることすら覚束ない有様だ。
「待てるか! 三人揃って壁の中の奴らに囲まれて終わりだろうが!」ガロが振り返る。目は完全に据わっていた。「俺は今まで何人もの若造とここに潜ってきた。囲まれた時にどうなるか、嫌ってほど見てきたんだよ。お前らみたいな半端者と心中する義理はねえ」
「その荷、俺たちの水と飯だろうが」
「知るかよ。身軽な方が生き残る。それだけの話だ」
ガロの手が背嚢の紐を締め直す。逃げる算段はもう決まっている顔だった。
「ふざけんな……!」
ハルはミラを瓦礫の陰にそっと下ろし、空いた左手でガロの肩を掴もうとした。だがつい今しがたまでミラを支えていた腕はまだ強張ったままで、とっさに伸ばした指先はガロの上着をかすっただけで滑り落ちる。
「離せ!」
突き飛ばされて背中から瓦礫にぶつかった。息が詰まる。右手を握ろうとしても、焼けた痺れが指の股まで居座って言うことを聞かない。掴む、軽くする、懐に飛び込む――いつもの手順が、今はどれ一つとして間に合わなかった。
「ハル!」
ミラの声が飛ぶ。だがハルが体勢を立て直した時にはもう、ガロは水袋の紐を掴んだまま走り出していた。
「悪いな、掴み屋。運が良けりゃまた会おうや」
嘲るような声だけを残し、ガロの背中は瓦礫の隙間に呑まれて消えた。足音が遠ざかっていく。
追おうにも、ミラを背負ったままでは無理だ。ハルは奥歯を嚙み、追いすがる代わりにその場に立ち尽くすしかなかった。
「……あいつ」
ミラが呻くように呟く。声には怒りより、諦めに近い疲労がにじんでいた。
「水も飯も、ぜんぶ持ってかれた」
「……肩、まだ動くか」
ハルは自分の手より先に、ミラの傷ついた肩へ目をやった。爪撃を受けた布はどす黒く染まり、傷は浅くない。
「動くよ、贅沢言えばね」ミラは強がるように口の端を上げかけたが、すぐにその笑みを収めた。声から茶化す響きが消える。「それより、ハルの手は。両方とも、ろくに使えてないんだろ」
「知るかよ」
ハルは自分の左手を見下ろした。役立たずの右手と、ろくに人一人を止められもしなかった左手。両方とも、何も掴めなかった。
「――上等だ」
吐き捨てるように呟いたが、声は自分でも驚くほど掠れていた。
顔を上げれば、闇の奥でまだ光る無数の目が、こちらを見ていた。逃げ場はどこにもない。水も食料もない状態で、二人はこの縄張りのど真ん中に取り残されたのだ。




