本物の杯
王宮へと続く街道。
真っすぐ続くその道を進む人影は、月光の下で黄金の髪を輝かせた。
「約束通り、とっておきの舞台を用意したよ」
彼――否、"彼女"は微笑む。
たった一人を思い浮かべて。
「殺しちゃ駄目だよ、ロッシュ」
背後に控えていた従者に向かって彼女は釘を刺す。
「セイラン・クラシェイドには生きておいてもらわなくてはならないから」
美しい微笑みが闇夜に浮かんだ。
◇
よく磨かれた王宮の廊下をセイランは小走りで進む。
背後に伝達網の部下を二人、従えて。
手には木製の小さな箱を抱えていた。
――これを持っていけば……。
視線は前へ前へと向けられた。
いくつかの角を曲がり、広間へと近づく。
――あの先にライカが……。
そう思いながら、セイランが廊下を右に曲がると、何者かが佇んでいた。
フードを深く被った男だ。
手に持った剣はすでに抜かれている。
「――お下がりください、セイラン様」
二人の部下が剣を手に、彼女を庇うように前に出る。
彼らは躊躇うことなく、男に向かって剣を振り上げた。
同時に振り下ろされた剣は、しかし、男に触れることはなく、あっという間に手から弾き飛ばされていた。
「何……!?」
驚く彼らの一人が壁に吹き飛ばされ、そのまま昏倒した。
「右です!」
セイランがそう声をかけた時、残った部下の横腹に剣の柄がめり込んだ。
「ぐっ……」
瞬く間に二人の部下が床に倒れ伏してしまった。
フードの男はセイランに向き直ると、ゆっくりと歩を進める。
「あなたは、ロッシュ・ヴァレさんですね?」
男は肯定するように足を止める。
「――これ以上、進むな」
彼は端的に言った。
大学生活でも、ロッシュが言葉を発することはほとんどなかった。
あるとしても、ルーカディアスが何か尋ねた時だけだ。
成長したその声は、やはり馴染みなく感じた。
「できません」
ここで引くわけにはいかなかった。
あともう少しで目的を果たせるのだ。
セイランはちらりと抱えている木箱に視線を落とした。
「ならば容赦はしない」
ロッシュはわざとらしく足音を立て、セイランに近づいた。
"殺しちゃ駄目だよ、ロッシュ"
彼はルーカディアスの命令を思い出す。
かつて宣言した通り、ルーカディアスはセイランの大切なものを壊すつもりだった。
だから、セイランを絶対に殺さない。
殺さず、見届けさせるのだ。
剣が振り上げられ、柄がセイランの肩を打った。
その勢いに床へと叩きつけられる。
木箱が手から離れ、中身が溢れ出そうになる。
――いけません……!
セイランは慌てて木箱に覆い被さった。
そんな彼女に、ロッシュは再び剣を振り上げる。
「セイラン!」
聞き覚えのある声が響く。
愛おしい声が耳に届く。
思わず閉じた目を開くと、大きな背が目に入った。
「あなた……」
ロウザがロッシュの剣を受け止めていた。
フードがめくれ、ロッシュの美しい顔が現れる。
二人は一度離れて構え直すと、激しい剣戟を開始した。
上背のあるロウザから放たれる剣は重く、ロッシュは次第に押されていく。
追い詰められた彼は、懐から何かを取り出した。
廊下の壁に設置された燭台の灯りを反射し、それはきらりと輝く。
ロウザはそれが何かを理解すると、ただ困惑した。
――短剣……?
いまさら間合いの短い剣に持ち替える利点が見つからなかったからだ。
けれど、ロッシュから繰り出される突きは今までの比ではなく、ロウザは避けるのが精一杯だった。
――なんだ、この技は……?
その動きには規則性がなく、まるで闇雲に振り回しているような奔放さがあった。
今度はロウザが追い詰められる番だった。
短剣のせいで受け止めることもできない。
ようやく相手が持ち替えた理由を理解した。
――まずい……このままでは……。
自分はどうなってもいい。
けれど、後ろには誰よりも大切な女性がいる。
その焦りが彼の体を萎縮させていた。
頬を切っ先が掠め、袖が切り裂かれる。
ついに、ロウザの手から剣が弾け飛ぶ。
短剣が振り上げられ、ロウザに向かって振り下ろされた。
「やめてください!」
美しい声が割って入る。
短剣が宙で静止する。
セイランが手を広げ、ロウザを庇うように立っていた。
わずかな静寂が廊下に流れる。
ロッシュは思わず止めてしまったのだ。
セイランを殺すなというルーカディアスの命令があったから。
しかし、その隙をロウザは見逃さなかった。
「……!」
ロウザの袖から何かが放たれ、ロッシュの肩を切り裂いた。
それはガードのない細い剣だった。
そのまま壁に突き刺さり、小刻みに揺れている。
「もうやめませんか?」
血を流すロッシュに、セイランが語りかける。
「これを広間に持っていけば、銀杯が偽物であると証明されます。
そうなれば、ルーカディアス王弟殿下のご計画も終わりです」
セイランは木箱を開け、中から何かを取り出した。
それを見て、ロッシュは初めて動揺を見せる。
「本物の"銀杯"です」
なぜ、それをクラシェイドが持っているのか。
ロッシュはその理由を知りもしない。
「それが本物であると、誰にもわかるものか……」
ただ絞り出すように、そう口にすることしかできなかった。
セイランは悲しそうな目でロッシュを見た。
きっと彼とは永久に分かり合う日など訪れないだろう。
「偽物の"銀杯"は、実際に毒を入れるため、実用的な杯に模様を浅く刻んだものだと聞いています」
それは、広間にいた伝達網の部下達の情報だった。
些細な情報も彼らは逃しはしなかった。
「ですが、本物をご覧ください。
国王より下賜された宝物である"銀杯"は、使用を目的とはしていません。
つまり、観賞用の杯であり、模様を深く刻んでいるのです」
そう言って掲げられた"銀杯"には、うねるような模様が確かに刻まれていた。
持って使うにはあまりにも仰々しい模様が。
「両者は全くの別物です」
どちらが本物か、誰の目にも明らかなほどに。
ロッシュは忌々しそうな表情を浮かべながら、背を向けた。
点々と血を垂らしながらどこかへと姿を消していく彼を、ロウザはあえて追わなかった。
「ライカの元へ急ぎます」
セイランがそう告げると、ロウザが頷く。
「ああ」
二人は最後の角を曲がった。
これだけの人がいるにも関わらず、広間は水を打ったように静かだった。
セイランは音を立てないように、人垣の中央へと近づく。その先に、彼女は――娘はいた。
ライカはルーカディアスと向き合っている。
手に、偽物の"銀杯"を持って。
――駄目です、ライカ……!
本物はここにあるのだから。
セイランがライカを止めようとしたその時だった。
娘の口から、凛とした声が放たれる。
「私はこの杯を飲みましょう」
少女は乗せたのだ。
天秤の皿に自らの命を。
「ルーカディアス王弟殿下、法によってあなたは裁かれます。
その時、閉廷を知らせるために木槌が叩かれるでしょう。
その音はあなたのために鳴るのです」
誰もがその言葉に耳を澄ませていた。
もう、彼女を謗る者はいない。
"銀杯"を持つライカを、一人の人間として見ていた。
――駄目……。
声が出なかった。
止めるべきだとわかっていたのに。
セイランは狼狽し、隣のロウザを見た。
けれど彼もまた、同じように動きを止めていた。
ライカの強い決断。
それが二人を止めていた。
彼らは血の繋がった親だから。
誰よりもその思いを理解し、そして受け止めてしまった。
「ライカネル!」
「やめてください! ライカ!」
誰かの声が響く。
ライカを止めるために。
けれど、少女はゆっくりと杯に口をつけた。
そんな娘を、セイランは瞬きもせずに見つめることしかできない。
杯の中身を飲み込んだ直後、ライカは喉を抑え、苦しそうに床に倒れ込む。
「ライカ!」
ようやく、悲鳴のような叫び声が喉から放たれた。
人垣をかき分け、娘の元へ駆け寄る。
――どうして私は止めなかったのです……!
母親として失格だ。
何よりも優先すべきは娘の命のはずだったのに。




