路地裏のネズミ
セイランの娘であるライカネルは、バーマン・セングに襲われた事件をきっかけに、ライカとして生きることを決意する。
そんな彼女に、第二王子・ネイゼンは、ラカート宮殿に赴くよう命令を下した。
玄関で見送るセイランの顔は暗い。
「本当に行くのですか?」
「ネイゼン第二王子殿下との約束ですから」
不安そうなセイランに、ライカは安心させるように微笑んだ。
<王国の長剣>であるゼナイという頼もしい青年もついている。
大丈夫だと言い聞かせて、セイランは娘を見送った。
けれど、そうして送り出した娘は、青い顔をして帰って来た。
どうやら、宮殿で事件の記憶を少しだけ思い出したらしい。
話を聞いたセイランは声を上げる。
「"銀杯"ですって……!?」
「お母様はご存知ですか?」
「ええ、存在は少し……」
セイランは誤魔化すように目を伏せた。
ライカは母の様子に気づきながらも、あえて触れないように続きを告げた。
「私は"銀杯"を渡されたようです。ですがそれは、偽物である可能性が高いようです」
「ええ、あなたはそのようなものを渡されるような子ではありませんもの」
娘を想う母の顔をして、セイランは頷いた。
それは間違いなく本心であった。
けれど、心の中では別のことを考えていたのも事実だ。
――本物はクラシェイドが保管していますから……。
<王国の薬杯>が初代国王より下賜された宝物"銀杯"。
それはロウザにより、セイランの元へと運ばれた。
セイランは息を吸って呼吸を整えると、ようやくライカに視線を合わせる。
「いいですか、ライカ。このことは誰にも話してはなりませんよ?」
「はい、わかってます」
銀杯がどのような重い意味を持つのか。
ライカにも理解できているようだった。
それは痛々しいほど。
偽物とはいえ、どれだけ傷ついただろう。
その時のことを思うといてもたってもおられず、セイランはそっと娘を抱きしめた。
「お母様、私は大丈夫ですよ」
少女は小さな声で優しく囁いた。
◇
入り組んだ路地裏。
そこを歩くのは、紫色の髪をした美しい女性。
髪と同じ色の上品なドレスを纏っている。
――ここでライカは、あの方に攫われたのね。
紫色の髪の女性――セイランは周囲をそわそわと気にしながら、狭い路地をゆっくりと歩いた。
娘は友人達との外出中、この路地裏に引き摺り込まれ、脅迫を受けたのだと言う。
相手は男性の格好をしていたが、女性であったとライカは主張した。
中性的な顔は異常に美しく、ワーミストロン歌劇場で主演を務めていた歌手だったらしい。
――あの子は人の顔をよく覚えていますから……。
密かに護衛をつけるのにも苦労した。
同じ顔ぶれを用意すると、すぐにばれてしまうからだ。
視界に入らないようにと、マシェル伝達網には口を酸っぱくして注意した。
――敵は恐らく……。
ライカの告げた人物には一人、心当たりがあった。
中性的な美しい顔立ち。歌手を演じる技量。自ら姿を現す自信。そして、何より朱の混じった複雑な黄金の瞳。
「ルーカディアス……王弟殿下……」
彼女がそう小さく呟いた時だった。
流れる風とともに、くすりと笑う声がこぼれる。
セイランが振り返ると、そこには記憶よりも背が伸びたその人が立っていた。
背後にフードを被った男たちを何人か従えている。
「久しぶりだね、クラシェイドさん。――今はリンカー夫人と呼ぶべきかな?」
にこやかな笑顔を浮かべ、ルーカディアスはお辞儀をした。
その慣れた所作に引き込まれそうになりながらも、セイランは険しい顔を返した。
「残念ながら、懐かしむことはできません。ルーカディアス王弟殿下」
見れば見るほど、ライカが言っていた通りの相手が目の前にいる。
娘をこの路地裏に引き込んだのはルーカディアスだとセイランは確信していた。
「息子を脅迫しましたね?」
「提案だよ。屋敷にこもって他所と交流を絶ってはくれないか、と。
――まぁ、断られてしまったんだけど」
やれやれと、ルーカディアスはわざとらしくため息を吐いた。
「大人しく従ってくれさえすれば、まだ利用価値はあったのに」
そして、何ともないようにそう言ってのけた。
目の前に母親がいるというのにも関わらずだ。
「私の息子を何だと思ってらっしゃるのです。
あの子はあなたの道具ではございませんわ」
セイランの言葉に、ルーカディアスは少しだけ目を細めて冷たく笑った。
路地裏の空気がぴりぴりと張り詰めたものへと変化する。
「そうだね。役に立たない道具は要らないよ」
目の前にいるのは貴族の格好をした二十代くらいの青年に見えた。
けれど歳はセイランと同じ三十代のはずだ。
それに、ライカの言う通りなら女性なのかもしれない。
――確かに、それは私も……。
昔からその疑念はあった。
大学に通っている頃からだ。
ルーカディアスの体は細く、声も高かった。
年齢が皆より低いせいだと言い聞かせていたが。
その相手はゆったりした態度で、セイランに語りかける。
「ずいぶんと執拗に私達を捜索させているようだが、止めてもらえるかな?
見つかるつもりはないけど、ドブネズミのように隠れるのも苦労してね。
――あなた達だって、子どもの命が惜しいだろう?」
ルーカディアスはセイランに近づくと、その金の目で彼女を見つめた。
朱の混じったその瞳は歪な色をしており、不気味だが、心を掴み、惑わされてしまいそうになる。
「正直に言うと、あなたが憎いんだ」
声を一段下げてルーカディアスは言った。
木の葉がそよぐようなその囁きは、耳の奥で木霊する。
「知らないだろうけど、あなたは私の大切なものを壊した」
それは確かな怒りであり、憎しみだった。
けれど、セイランにはまるでわからなかった。
自分が何を壊したのか。
その心当たりがない。
戸惑うセイランの肩にルーカディアスは手を置いた。
「聞いてくれるかな?」
置かれた手に力が込められる。
「彼女から離れろ!」
路地裏に声が響いた。
黒い影が二人の間に割って入る。
背が高く恰幅の良い男――ロウザだ。
袖の広いコートを羽織っている。
ロウザは叫んだ。
「やれ!」
右手を上げ、ロウザの袖から何かが放たれた。
ルーカディアスの背後に控えていた男の一人が、すぐさまそれを叩き落とす。
鈍い音を立て、地面にガードのない短剣が転がった。
「何……!?」
ロウザは驚いたように目を広げる。
それは自分の短剣がルーカディアスに届かなかったからではない。
「ああ、お仲間かい? とっくに捕まえたよ」
ルーカディアスの目が細められる。
それと同時に、周囲からぞろぞろと人影が現れた。
彼らはどさりと何かを投げ捨てる。
配置していたマシェル伝達網の配下達だった。
「馬鹿な……」
セイランを庇うようにロウザは背で守ったが、二人は周囲をぐるりと完全に囲まれていた。
遠くに配置した配下も、この距離では打つ手がない。
「叫んで警備隊でも呼ぶかい? 今からじゃ応援が間に合わないけどね」
警備隊の本拠地はこの路地裏から離れた場所にあった。
警邏が本拠地に応援を呼び、ここまで戻って来る間に、セイラン達は物言わぬ遺体になっていてもおかしくない。
ルーカディアスは勝ち誇ったように口を歪ませる。
「人目の多い街中は、カラスのように巡らされたあなたたちの方が有利だろう。
けれど、この入り組んだ小汚い路地裏は――……」
黄金の瞳の奥で光が瞬く。
「私たち、ドブネズミのものさ」
男たちの剣が二人に向いた。




