銀色の杯
メザーニャ王国や周辺諸国との争いに、ラウドニウドは消極的な対応を行った。
人員も物資も足りず、国を守るため戦っているはずの軍隊――特に<王国の長剣>シルヴィス侯爵が率いるシルヴィス騎士団は苦戦を迫られた。
政務でも佞臣を重用するなど腐敗を極め、諫言する者から顔を見なくなる。
<王国の天秤>ケオニール・クラシェイドは宣言する。
"王国裁判"の開廷を。
裁かれるのはラウドニウド。
この国の国王だ。
しかし、裁判が開かれる直前、<王国の薬杯>レメリオ・フォルスが一つの決断を下す。
あまりにも冷酷な決断を。
◇
王宮の廊下を一人の男が歩いていた。
いやに背の高い男だ。
黒いコートを羽織り、頭をフードですっぽりと覆っている。
廊下は窓一つない。
あるのはぼんやりとした燭台だけだ。
男は突き当たりの部屋の前で足を止める。
大きな扉が閉じていた。まるで男を拒むかのように。
構わず男は扉に左手を伸ばし、静かに、だが確実に押した。
重い音と同時に扉の片側が開く。
部屋の中には痩せた男――ラウドニウドが立っていた。
月明かりの差す窓辺にたった一人で。
「誰だ!?」
ラウドニウドはその背の高い男に向かって声を張り上げた。
「曲者だ! 誰か――キーリクはいないのか!?」
ラウドニウドの声に反応はない。
本来、彼を見守っているはずの<王国の甲冑>キーリク・ヴェインすら駆けつけては来なかった。
なぜなら、扉の向こうには誰もいないのだから。
ラウドニウドは椅子に立て掛けていた剣を手に取ると、すらりと抜いた。
月の光を反射し、剣は青白く輝いた。
「貴様……」
ふと、男が手に持っている物に目が留まる。
盆に乗せられたそれは、小さな銀色の杯だった。
外側には深い模様が刻まれており、嫌に仰々しく感じられた。
「"銀杯"だと……!」
ラウドニウドは目を見開く。
しかし、すぐに全てを察し、崩れるように椅子に座り込んだ。
鈍い音を立て、剣が床に転がる。
「そうか……フォルスは私を見限ったか……」
目に手を当て、上を向く。
思い当たる節は十分あった。
自分が自分でなくなってしまったかのように、思考は鈍化し、感情は昂り、抑えられなくなっていた。
――いつの間に?
いつの間に壊れてしまったのだろうか。
答えはぼんやりとわかっていた。
けれど何もかもが遅かった。
「陛下」
男は片膝を床に付け、恭しく杯を掲げた。
銀杯の中には透明な液体が入っている。
透き通るような美しさとは裏腹に、それは死へと誘う毒薬――白砒だった。
「王国の敵に渡される"銀杯"、か……」
フォルスはそう判断した。
もしも、最後に王国の人間として僅かでも矜持が残っているのなら、この杯を粛々と受け入れなくてはならない。
それが、<王国の薬杯>フォルスの銀杯なのだ。
ラウドニウドは盆に手を伸ばし、その小さな杯を指で掴む。
ひやりとした感触が伝わった。
「よりにもよって今日か……」
窓の外に視線を向ける。雲の合間から月が覗き、暗い夜をぼんやりと照らしていた。
「最後に会うことができれば良かったのだが……」
そう言って杯に口を付けて全てを飲み干した。
それは胃を焼くような激痛を走らせ、呼吸を狂わせる。
汗が身体中に浮かび、滴り落ちた。
「陛下……!」
ラウドニウドが椅子から崩れ落ちないよう、男は体を支える。
苦しそうにもがくラウドニウドの爪が男の首の皮を薄く裂いた。
やがて苦しみもがいていた体は糸の切れた人形のように弛緩し、椅子にその身を投げ出す。
男は瞼に手を当て、ゆっくりと下ろした。
まるで眠っているかのような遺体がそこにあった。
投げ置かれていたラウドニウドの上着を手に取ると、悼むように遺体に被せた。
男が銀色の杯を回収しようと手を伸ばしたその時、大きな音を立てて扉が開く。
「ラウドニウド!」
背が高く髪の長い若者――ウェンセムが部屋に足を踏み入れた。
「ラウドニウド!?」
椅子の上に不動で座る人影を見て、ウェンセムは間に合わなかったことを悟る。
「誰もいないと思ったらこれか……」
吐き捨てるように彼は呟いた。
テーブルの上にはグラスが二つ。
ラウドニウドは客人を待っていたのだ。
「これがフォルスの意向か?」
その問いかけに、男は静かに頷いた。
「特権とは傲慢なものだな。そうは思わないか、フェッセル?
――いや、ロウザ・クラシェイド」
ウェンセムはかつかつと歩き、男――ロウザの前を通り過ぎる。
そのままラウドニウドの対面に座ると、テーブルの上にあったワインをグラスに注いだ。
「私はこれで」
ロウザが頭を下げ、テーブルに置かれた銀杯を手に収める。
「それをどうする?」
ウェンセムが再び問いかける。しかし、その答えはロウザからすると決まりきっていた。
「もちろん、行き先は一つしかありません」
「本当に?」
ウェンセムがグラスを回すと、中に注がれたワインが揺れた。
ラウドニウドの遺体を前にしても、この男は冷静だ。
「あった所に戻る、それしかありません」
「つまらない返事だ」
やれやれ、とウェンセムは手を振る。
しかし、おどけた態度もすぐに引っ込めると、ワイングラス越しにロウザを見据えた。
「セイランの手に。――それがもう一つの道だ」
フードの下で、ロウザは息を飲む。
考えもしなかった道。
それを指し示されて、彼は動揺を隠せなかった。
彼女の優しい笑顔が頭に浮かぶ。
彼女の声が心の中で響く。
ウェンセムはそんなロウザに、凍えるような冷たい視線を向ける。
「フォルスは女が特権を握ることを誰よりも危惧していた。だから……」
だから、セイランを追い詰めた。
アイシアン王立大学での事件は彼らが起こしたことだった。
ルーカディアスに心酔していた生徒、マグリド・ニースを焚き付けて。
ウェンセムの目の奥には、確かに怒りが宿っていた。
「その"銀杯"がクラシェイドに渡れば――」
「フォルスへの牽制になるでしょうね」
手に持った杯。
そのひやりとした手触りを感じながら、ロウザは間違いなく逡巡していた。
「私はフォルスの駒です」
王宮でセイランと度々会っていたのは偶然ではない。
<王国の天秤>の資格を失ってなお、妃達と交流する彼女を警戒し、監視を命じられていたからだ。
それはセイランと結婚してからも変わらず続いていた。
「その私に、あなたがそれを言うのですか?」
セイランの婚約者であったウェンセムが。
彼女との婚約を破棄した挙句、ロウザに求婚するようにと公爵邸で迫ってきた彼が。
グラスに映るウェンセムの顔は歪んでいた。
その口がゆっくりと開く。
「それで良いと私は思うがね」
この男の考えが、気持ちが何もわからなかった。
しかし、ウェンセムが提示した道。
それは、ロウザには決して導き出せない選択肢であり、クラシェイドの一員としてやるべきことだった。
そして、銀杯を持ち帰れば、それはすなわちフォルスへの決別にもなる。
ロウザは銀杯を胸にしまうと、一言も声を発せず、部屋を出た。
その行き先はどこか。
思案するまでもない、とウェンセムは笑った。
「私が代わりに見届けてやろうじゃないか」
残ったグラスにワインを注ぎ、彼は自分のグラスと重ね合わせた。
「乾杯」
冷たくなった遺体に向かって小さく囁いた。
◇
その夜、王宮から離れたアレシオン公爵邸にて、一つの遺体が上がる。
遺体の名はエセルド・アレシオン。
<王国の車輪>の特権の持ち主だ。
その特権は弟であるウェンセムが引き継ぐこととなった。
王国裁判を待たずして崩御したラウドニウドに代わり、王位は唯一の王子となったナザリウスの手に渡った。
ナザリウスは他国の侵略と腐敗した政治から王国を守るため、いかなる手段も選ばなかった。
物静かな性格とは裏腹に、その政治は苛烈を極め、多くの者を巻き込みながら、敵となる者を断罪した。




