男装の我が子
それは突然だった。
セイランはケオニールに呼び出され、彼の書斎に足を運んでいた。
ここに来るといつも不安になる。彼女はそれでも背筋を伸ばした。
ケオニールは重い口を開いた。
「ウェンセムが婚約を白紙に戻すと言ってきた」
「本当ですか……!?」
告げられた言葉に、セイランは驚きを隠せなかった。
あまりにも唐突だ。
いくら彼が突拍子もない男だとはいえ、無責任だと思った。
「何故です? 理由は?」
セイランの問いに、ケオニールは首を左右に振った。その態度に、セイランは今にも部屋から出そうな勢いで言った。
「会って話をします」
「その必要はない」
父はばさりと切り捨てた。
「代わりに婚約の申し出が入ってきている」
「どういうことです?」
婚約が白紙に戻った途端、求婚されるなど話ができすぎている。
セイランは警戒したような視線をケオニールに送った。
「相手の名はロウザ・フェッセル」
「フェッセル……さん……?」
唇から漏れたその名。
嘘のようだった。
柔和なあの顔つきが頭に浮かぶ。
――どうしてあの方が……。
わからなかった。
二人はそんな関係だっただろうか。
セイランは思い出す。
アイシアン王立大学で助けられたこと。
王宮で話したこと。
アレシオン公爵邸で慰められたこと。
――あの方と話している時は、いつも心が温かくなりました。
それは、ウェンセムにはないもの。
いつも、心の奥底でセイランが求めていたもの。
本当に欲しかった温もりが、本当の意味で手に入る。
セイランは放心したように立ち尽くした。
そんな彼女を見つめながら、ケオニールは一つの質問を投げかける。
「世間は公爵令息を裏切り、身分の低い下級貴族の男と恋に落ちたのだと噂するだろう。
それでも構わないか?」
セイランは父の目を見た。険しいその目は確かに問うている。
――私たちが本当に愛し合っているのかを。
セイランは迷っていた。
思いがけない出来事に判断が追いつかないのだ。
自分を落ち着かせるように目を瞑る。
彼女の頭に声が響いた。
低く柔らかで、どこか不器用そうな声が。
"何度だってお助けしましょう"
気取ったことなど言わないロウザが、珍しく口にした頼もしい言葉。
それは、何故か最も彼の本心に近いように感じられた。
セイランは瞼を開くと、一歩前に出た。
紫水晶のように澄んだ瞳は、すでに覚悟が固まっていた。
いつもどこか怯えたようにケオニールを見つめているはずの彼女は今、毅然とした表情で父と向き合っている。
「どんな風に謗られても構いません。
私はフェッセルさんと生きていきます」
彼女の答えを聞いたケオニールは、少しだけ表情を緩ませる。
そのことに気づく者はいない。
◇
それから、セイランはロウザと結婚し、一人の子をもうけた。
その子は娘。
けれど、ケオニールの意向で男として育てることとなった。
もちろん、セイランは反対した。
王国の法に触れる背信行為であり、そしてなにより娘に歪な人生を歩ませたくなかった。
けれどケオニールは頑なだった。
それが娘のためなのだとセイランに何度も言い聞かせた。理由は言われずと知れていた。娘の身を守るためだ。それは彼女自身が経験している。
セイランは苦渋の思いで同意した。
「――今日はここまでにしましょう」
机に並んで座っている二人に向かって、セイランは微笑んだ。
男装をした娘――ライカネルと、その従兄弟にあたるラッカス・バンデルだ。
ラッカスはセイランの姉・レティアの息子だった。ライカネルの七つ年上で十六歳だ。不思議なことに同じ歳の子どもよりライカネルの方が話が合うらしい。
ラッカスは今、アイシアン王立大学に通っているが、それでもなお、クラシェイドの屋敷に足を運び、セイランから教えを受けている。
どこか姉に似た顔をした彼は、年下のライカネルに語りかける。
「『エルドガールの法と歴史』は読んだか?」
「まだ読んでません」
「少し早いかもしれないが、ライカネルなら理解できるかもしれない」
いつも生真面目な表情をしているラッカスだが、ライカネルと話している時だけは楽しそうに話す。
わずかだが、それでも少年らしい態度を現す彼を見て、セイランはどこかほっとしていた。
「先々代国王陛下の御代、エルドガールの法が大々的に整備されたのだが、それについてなかなか詳しく記されている」
ラッカスは部屋にある本棚から一冊の本を取り出し、とあるページをライカネルに見せた。
「我々の曾祖父様だ」
髭の生えた老齢の男の絵が載っている。
その下には<王国の天秤>イドル・クラシェイドという名も記載されていた。
ライカネルは本の一文をゆっくりと読み上げる。
「旧来の慣習の傍ら、体系的な法が整備され、『エルドガール法大全』が編纂されました……?」
「ああ、凄いだろう?」
ライカネルは首を傾げる。
それがどう凄いのか、幼い彼女には理解できなかったのだ。
「今までは慣習的な判断で王や地方領主による政治が行われていたのだが、これにより……」
ラッカスの言葉をライカネルは目を輝かせながら聞いている。
どこまで理解できているのかセイランは決めかねた。
けれど時折、ライカネルが口にする疑問は、決して的外れなものではなかった。
「――というわけで、近隣諸国とは異なる点がエルドガールにはあるんだ」
授業が終わったにも関わらず、まだ法律の話をしているのがおかしくて、セイランは顔を綻ばせた。
ラッカスはセイランの養子にと見込まれた少年だった。
彼が<王国の天秤>を継いでくれさえすれば、ライカネルは男装を捨て、同じ年頃の娘と同じように、一人の令嬢として生きられるのではないか。セイランは淡い期待を抱いていた。
そんな密かな淡い期待。
けれど、それも数年後に打ち砕かれる。
ラッカスが養子の件を明確に断ったのだ。
これにはケオニールも憮然たる面持ちで、少年に理由を求めた。
「特権など貴族の驕りです」
ラッカスはどこか目を彷徨わせながらそう言った。
「私は一人の人間として平等に裁判を行いたいのです」
それは本心なのかもしれない。
けれど、セイランには他に理由があるような気がしていた。
ある時からライカネルに対してよそよそしくなり、距離を取るようになったからだ。
――まさか……。
けれど、その疑問は口にできず、彼の最もらしい理由を受け入れた。
「残念ですが仕方ありません。何かあれば頼ってくださいね」
セイランが助け舟を出すと、ラッカスは安堵した表情を見せる。
彼はその後、アイシアン王立大学をセイランと同じく首席で卒業し、地方裁判所の補佐官として勤務を始める。そこで裁判官を務めるようになり、若いながらも信頼を積み上げていく。
王立裁判所の裁判官に任命されるのは、そのすぐ後のことだ。




