ダンスの相手
ここ数ヶ月間、セイランの記憶は曖昧だった。
表面上はいつも通り過ごしていたようだが、目の焦点は合わず、どこか遠くを見ていたという。
けれど時間は止まってくれない。とうとう来てしまったのだ。
毎年、学内で開催される"年末祭"と呼ばれる行事が。
通常、十六歳前後になると、貴族は社交界に参加する。大学に通う彼らにはそれが難しいため、仮の社交場として設けられたのがこの行事である。
許可さえ下りれば学外のパートナーを呼ぶこともできるほど開けた祭で、いつもは静粛な大学も、この日だけは賑わいを見せる。
<王国の天秤>は、結婚相手以外とは決して踊らない。
ケオニールも妻となる女性との婚約が決まるまでは、誰の手も取らなかった。だから、年末祭で踊ることはないのだと、セイランはそう思っていた。
しかし、彼女にはウェンセムという婚約者がいる。<王国の天秤>の資格を失った彼女にはもう、踊らない理由の方がなかった。
「大丈夫ですか、セイラン?」
マーティアが心配そうに見つめる。
ダンスホールに集められた学生の中で、セイランほど表情が硬い者もいないだろう。
「ええ……」
セイランは口の端に力を込めると、無理やり笑顔を作った。それはなんとも痛々しい表情だ。マーティアはきゅっと拳を握った。
「ところで、マーティアは誰と踊るのですか?」
二人の時は名前で呼び合う。それがいつの間にか暗黙の了解になっていた。
それほどまでに、彼女たちの仲は深まっていたのだ。
「アルトです」
「リバーさんですか!?」
セイランは聞き間違えたのではないかと自分の耳を疑った。
アルトの性格からして、年末祭のダンスに参加するとは思えなかったのだ。
「無理やりだ」
不機嫌そうな顔をしてアルトがやって来る。
学生服ではなく、礼服を着ていた。
他の男子学生もそうだ。
女子学生は華やかなドレスに身を包み、様々な色を会場に添えている。
アルトが大袈裟に口を尖らせた。
「おかげでダンスの練習をする羽目になった」
「あら、きっといい思い出になりますわ」
マーティアがくすりと笑った。誰が見ても美少女だ。
同性ながらもセイランはついつい見惚れた。
「ほら」
アルトが手を差し出すと、マーティアは躊躇いなく自分の手を伸ばした。
――恋仲というわけではなさそうですね。
アルトとマーティアの間には、恋人特有の甘い雰囲気はなかった。
仲の良い友人同士で一組になっただけのようだ。
「それでは、行って来ますね」
マーティアは心配そうにこちらを見たが、セイランは気にさせないように明るく手を振った。
――ウェンセムはどこかしら。
パートナーを探して、セイランは会場を回る。
彼女が移動するたびに、周囲から視線が突き刺さった。
同情。
嫉妬。
侮蔑。
遠くでくすくすと嘲笑する声さえ聞こえた。
<王国の天秤>の娘として役割を果たすために大学に来たというのに、結局は公爵令息の婚約者に収まることとなったセイランに、周囲の目は冷たい。
セイランはただ、俯き耐えるしかなかった。
「ここだ、セイラン」
ふいに、嘲笑が止む。
皆の視線はセイランから逸れた。
誰もがその声の先――背の高い深緑の髪の学生に目を奪われていた。
「ウェンセム……」
彼が一歩前に出ると人垣は分かれ、道を作った。
かつかつと歩く姿は堂々としており、その端正な顔と相まって、男女ともに魅了した。
「手を」
動きを止めたセイランにウェンセムは囁いた。彼女は慌てて手を差し出す。
慣れた動作でその手を取ると、ウェンセムはセイランの腰に手を回し、自分の方へと引き寄せた。
ちょうど演奏が始まる。
練習以外でダンスを踊るのは初めてだった。
踊るつもりなどなかったのだから。
セイランはぎこちない動きで足を演奏に合わせた。
「おいおい、硬いなぁ」
ウェンセムが呆れたように笑う。
どこか人を馬鹿にするような、いつもの笑い方だ。
その態度に、セイランはほっとした。
――変わらない。
そう、この男とはこういう関係のままなのだ。結婚したって同じだろう。
それがセイランを安心させた。
手足から力が抜け、体をウェンセムに委ねる。彼のしっかりとした体格は彼女を受け止め、流れるように動いた。
二人のダンスは誰よりも目立っていた。
なじる視線も嘲笑する声も、今だけは彼女に向かなかった。ウェンセムの存在がそれを許さない。今この場で誰もがそれを理解していた。
きらきらと燭台が輝く。
旋回するたびにそれらは光の線となり、流れ星のように視界を彩った。
◇
年末祭の後半に差しかかると、第一王子・ナザリウスがフラウラを連れて会場に現れた。
周囲からはどよめきが起こる。
当然だ。フラウラが第一妃になる可能性が高まったのだから。
けれどそのどよめきも、もう一人の王子によってかき消される。
第二王子・ルーカディアス。その隣には女性の姿がなかったからだ。
静まり返る会場をルーカディアスは優雅に歩く。
靴が床を蹴る音がわざとらしいほど響き、視線は自然とそちらに向く。
「よろしければ踊っていただけないだろうか?」
そう言って手を伸ばした相手はセイランだった。
今まさに、ウェンセムと一曲を終えたところだった。
――私と……?
心臓が焦ったように高鳴る。
ウェンセムやルーカディアスに聞こえてしまっているのではないかとさえ思えた。
パートナー以外の男性と踊ること自体は咎められる行為ではないが、なにせ相手は第二王子だ。
この場で彼の手を取れば、邪推されることは十分あり得る。
「踊ってきたら?」
他人事のようにウェンセムは言った。
「でも……」
セイランは困ったようにその長身の男を見上げる。
けれど彼とは目が合わない。
「後でナザルとも踊ればいい」
ウェンセムとナザリウスが目配せするのがわかった。
遠くにいたナザリウスが仕方なさそうに頷く。
「それじゃ」
まるで押し付けるかのように、ウェンセムはセイランの手をルーカディアスに引き渡す。
細く整った白い手がセイランを優しく誘導した。
反対の手がセイランの腰に回る。
ルーカディアスはセイランよりも年下なのに十分な先導を見せ、優雅な動きで周囲の人々を魅了していく。
ちらちらと自分たちに視線が向いていることを、セイランは背中で感じた。
やがてルーカディアスの顔が耳元に近づくと、柔らかな声が囁かれる。
「すまない。あなたと踊りたくて、強引な手を使ってしまった」
「ルーカディアス第二王子殿下……」
<王国の天秤>の資格を失ったセイランは、ウェンセムという婚約者ができた。
彼女の性格からして、ダンスに誘っても断ると最初から踏んでいたのだ。
「どうしてそこまで……」
「それだけの価値があると思っている」
その言葉に、セイランは顔を伏せた。
「私にはもう……」
ダンス中にも関わらず下を向いた結果、セイランは躓きかけた。
「あっ……!」
そんな彼女をルーカディアスはくるりと旋回させ、体勢を整える。
あっという間の出来事に、セイランはただ、目を丸くする。
「あなたはこんなところで終わる人ではない。そうだろう?」
朱が混じる複雑な色をした瞳がセイランを捉えている。
心地の良い声は耳障りの良い言葉を紡ぎ、少女の心を掻き乱す。
「王国さえも動かす特権を傲慢な男に持たせれば、たちまち"均衡"など崩れてしまう。二つの皿は"正義"を知る者にこそ預けられるべきだ」
ルーカディアスは絡めた指に力を込める。
「少なくとも、私はそう思う」
例え、他の誰が嘲笑おうとも。
セイランはぼんやりとした顔でルーカディアスを見ていた。
夢をみるかのように。
――あれは……?
ふと、焦点の定まらないその瞳が何かを捉えた。
ルーカディアスの背後。
遠くに小さく見える人影。
高い背。
広い肩幅。
こちらを見ている。
――フェッセルさん……?
その瞬間、セイランの視界は明瞭になった。
ぼんやりしていた頭は霧が晴れたように鮮明になり、目を大きく見開いた。
――私は今、何を……?
セイランは思わず、ルーカディアスの手を払い除けた。
「……申し訳ございません、ルーカディアス第二王子殿下」
セイランは震えを落ち着かせながら、いつもの凛とした声を取り戻そうとした。
「ご期待に応えることはできません」
返事も待たずに一礼すると、背を向けて逃げるようにその場を去った。




