名も知らぬ痛み
――ばれないだろうか。
そんなことを考えながら、アスは窓際の席に着いて外を見ていた。
今日はいつもより調子が良かった。
だから、通学をルカに代わってもらったのだ。
彼女は心配そうな顔をしていたが、快く送り出してくれた。
「――ルーカディアス第二王子殿下」
できれば誰とも話をしたくなかったが、かけられたその声は透き通るように清々しく、耳を心地よく撫でた。
「こんにちは、セイラン。君から話しかけてくれるなんて嬉しいよ」
初めて見る顔なのに、それが誰なのかすぐにわかった。
――ルカが言っていた通りだ。
思わず耳を傾けてしまいたくなる凛とした声。
今まで聞いた誰よりも美しい声だと思った。
「その……顔色が優れませんが大丈夫でしょうか……?」
セイランは小声で尋ねた。
王族の体調に言及するのは躊躇われたのだろう。
けれど、無視するには性格があまりにも優しすぎた。
――ルカが気に入るのもわかるなぁ……。
美しい声も、柔らかい表情も、滲み出る聡明さも、全てが好ましく感じられた。
体が弱いアスは、他人と関わることが少なかったが、そのほとんどは二度と会いたくない者ばかりだった。
――悪くないものだな。
なんの含みもない心配というのは。
ご機嫌取りでもなく、下心でもなく、ただ純粋に自分を気にかけてくれるのはルカぐらいだった。
母やロッシュでさえ、ここまでの純真さをもって自分と接してはくれないだろう。
「昨日、徹夜で本を読んでしまってね。
『エルドガールの法と歴史』。あなたならもう読んでいるかな?」
「ええ、読みました。隣国との比較がわかりやすく、大変勉強になりましたわ」
本の話になると、セイランは目をきらきらと輝かせた。
まるで宝物を見つけた子どものようだ。アスは心の中でくすりと笑った。
――本当は難しい本なんだけどね。
『エルドガールの法と歴史』はある程度、法の知識が必要となる本だ。
当然、一年生の講義では取り扱われず、話題に上ることはない。
セイランは相手が別人とも知らずに語りかける。
「先代国王陛下の時代に、法が大々的に整備されたその背景が詳しく記述されているのも興味深かったです」
「ああ、なかなか踏み込んだところまで書かれていたね。特に――……」
アスが話を続けると、セイランは嬉しそうに相槌を打つ。
最初に声をかけた時の大人びた印象とは異なり、年相応の少女のように見えた。
「ご機嫌よう」
教室に深緑の髪をした女子学生が入ってくる。
近くの生徒に声をかけると、彼女はセイランに視線を向けた。
「ご機嫌よう、クラシェイドさん」
「ご機嫌よう、アレシオンさん」
二人の少女はにこやかな笑顔を交わした。
それはまるで親友同士の挨拶のようであった。
アスの胸がちくりと痛む。
――調子が悪くなってきたかな。
彼はこの感情の名前を知らなかった。
だから、それが心臓の痛みであるかのように錯覚したのだ。
「大丈夫ですか? ルーカディアス第二王子殿下?」
顔色がさらに悪くなったようだ。
セイランが心配そうな顔をして、療養室に行くことを提案した。
「私につかまってください」
「ああ、大丈夫。ロッシュがいるから」
そう言って微笑んだ顔は、ルカのものとは違っていた。
違和感があったのか、セイランが小首を傾げている。
それが確信に変わる前に、アスは椅子から立ち上がった。
ふらふらとした足取りで教室を出ると、一度だけ振り返る。
セイランはアスを見送るように視線を向けていた。
「ふふっ……」
彼は小さく笑った。
背に彼女を感じながら。
――本当に、悪くないものだな。
友人というには壁がありすぎる。
とても分厚い壁だ。
この目に見えない障壁を、いつか取り除くことができるだろうか。
アスは廊下に差し込む光に目を細め、彼女の透き通るような声を頭の中で反芻した。
◇
学舎の廊下に長い紙が貼り出される。
学期末に行われた試験の上位二十名が掲載されていた。
「一位はクラシェイドさんね!」
マーティアが自分のことのように喜んだ。
あれから、彼女とはよく話をする仲になっていた。もちろん、セイランの役目上、表立って一人と仲良くすることは厳禁だったが。
一位のセイランに続き、二位にルーカディアス、三位にアルトが並んでいた。
「アレシオンさんも九位じゃないですか」
彼女の順位をセイランは指差した。
一年生は百人以上いるため、マーティアの順位もなかなかのものである。
「フォルスさんは五位なんですね」
フォルス伯爵家は医者を多く輩出する学問の家系だ。
その血を汲むフラウラもまた、勉強に熱心であった。
セイランは順位表にざっと目を通す。これもまた一つの情報源だからだ。彼女は頭に自分を除く十九人の順位を叩き込んだ。
――奨学生は全員載っていますね。
彼らの名を見つけて、セイランはほっとする。
この中に載ることが、奨学金を給付し続けてもらうための条件なのだ。
「あ、あった! ぎりぎりだよ……」
背の低い少女が順位表の最後を指差し、ため息を漏らす。
「どうしよう……。五大貴族の娘の中で私だけだよ……こんなに低いの……」
聞く者が聞けば腹を立てそうな台詞だ。
側に立っていた赤髪の少年が呆れ声を出す。
「二十位なら十分でしょう?」
「で、でも、十位以内に入れって……」
「おかげで二十位以内に入れましたね」
くしゃくしゃとした黒髪の少女。
彼女の名はユライア・シルヴィス。
<王国の長剣>シルヴィス侯爵家の令嬢である。
ケイビンとはずいぶんと打ち解けた関係のようだ。
「五大貴族というのは頭がいいんだな」
同じく順位を確認しに来たアルトが、嫌味ったらしくぼやいた。
「教育を受けやすいですからね」
セイランは決して自分の力ではないということを強調した。
事実、彼女の実力は父親の教育の賜物だった。
もちろん、彼女自身の努力と才能によるところもある。
しかし、それ以上にケオニールから得たものは多かったのだ。
「いや、気にしないでくれ」
アルトはばつが悪そうに笑った。
羽ペンには興味がなくても、学問には大いに興味があるのだ。
幼き頃から充足していたセイランたちを羨むのも仕方がないことだ。
――その直向きさが羨ましい。
きっと、セイランにはできないことだ。
学問を純粋に楽しみたいという思いを持ちながら、彼女はそれを手段として割り切っている。
それでこそ、クラシェイドなのだと言い聞かせながら。
「アルト、お前三位だろ。凄いじゃないか」
アルトに気づいたケイビンがこちらに駆け寄る。
羽ペンの一件以来、彼らは仲が深まったらしい。
「あんたの名は……ないな……」
「悪かったな。俺は騎士の子なんだよ」
ガリア子爵家では代々、騎士の称号を得て戦地に赴く者が多かった。
シルヴィス侯爵家の信頼も厚く、両家の間で婚姻が結ばれたこともあった。ケイビンの髪が赤いのもそのせいである。
彼はシルヴィスの象徴ともいえる赤髪を、自分も持っていることに誇りがあった。
「士官学校に行ってろよ」
「ま、それには事情があってな……」
歯切れが悪そうにケイビンは答えた。
騎士を目指している彼は、大学より士官学校に行くべきだった。それでもアイシアン王立大学に来たのはなぜか。
それは、シルヴィス侯爵令嬢・ユライアが入学したからである。
高位の貴族ともなると、供として同級生の従者を引き連れて通う場合が多い。ユライアの場合がケイビンだったのだ。
他の貴族もそうである。セイランと肩をぶつけた時は一人だったが、フラウラも複数の学生と連れ立って動くことが常だった。王族であるルーカディアスも同じ背丈の少年を常に連れている。
――私はいませんが。
そういえば、マーティアにもいない。
セイランは隣に立っている彼女に目を遣った。アレシオン公爵家ともなると、いない方が不思議なくらいだ。
――気づかれないように見守っているのでしょうか。
その可能性は高かった。
マーティアが有意義な大学生活を送れるよう配慮されていると考える方が妥当だ。セイランはマーティアを見ながら考えた。
「では、本を返しに行ってまいりますね」
手に持った本。それは昨日、借りたばかりだったが、セイランはもう読んでしまったのだ。
「ええ、お気を付けて」
マーティアが優しく返す。
図書室に行けばロゼスタに会ってしまうかもしれないが、それでもセイランは通うのを止められなかった。一日中籠っていたいとさえ思っていた。
ゆったりとした螺旋状の階段を上る。
その足取りは軽く、先を急ぐようだった。
顔にはにこやかな笑みが浮かび、機嫌の良さが表れていた。
前方に誰もいなかったから気づかれなかったが、もし見られていたら驚いたかもしれない。
そのくらいには気が緩んでいた。
「――セイラン・クラシェイド」
階段の下から引き止められる。
セイランは足を止め、振り返った。
「ニースさん……?」
マグリド・ニース。
マルティバス男爵子息だ。
五大貴族の傍流というわけでもない、名もなき下級貴族だ。
話したことのない男子学生に呼び止められ、セイランは困惑した。
「お前、どんな手を使ったんだ?」
かつかつと大きな足音を立て、マグリドはセイランの側に近寄る。
その目はどこか血走っていた。




