深緑の公女
「大学はどうだ?」
セイランの父であるケオニールは重たい口を開く。
裁判官であり、<王国の天秤>クラシェイド伯爵でもある彼は、いつも表情を崩さなかった。
書斎には数えきれないほどの本が棚に並んでいた。
あんなに好きな本も、今だけは重圧となってセイランにのしかかった。
「……今のところ順調です、お父様」
少しの諍いはあったものの、大きな問題は起こっていないはずだ。
けれど、本当にそうなのか。
ケオニールに見つめられると、セイランは何かを見落としているような不安に駆られた。
「油断はせぬことだ」
「はい」
注意を促されたのだろうか。ナザリウスの時と同じだ。
セイランは不安のあまり顔を俯けた。
――私はわかっていないのかもしれません。
あの大学に通う学生たちのことを。
きっとまだ、セイランは"均衡"を保てていないのだ。
◇
大学の校門を潜りながら空を見上げる。
曇った空が続いていた。
まるでセイランの心を映しているようだ。
「邪魔ですわ」
「あ……」
背後から誰かの肩がぶつかり、セイランは前屈みになる。
転倒することは避けられたが、足を軽く捻ってしまった。
「痛っ……」
「よそ見をするからです」
手を組んでセイランを睨むように見つめるのは、銀色がかった灰色の髪の少女だった。
<王国の薬杯>フォルス伯爵令嬢・フラウラである。
優しく波打つ髪に、白く整った顔。
おとぎ話に登場するお姫様のようだった。
「申し訳ありません」
痛みを我慢しながらもセイランは謝った。
よそ見をしていたのは確かだったからだ。
「しっかりしてくださいな、指代生さん」
フラウラの言葉には棘があった。クラシェイド相手に珍しいことだ。
――気に触ることをしたでしょうか?
セイランは首を傾げる。フラウラとはあまり接点がなかった。
気に食わないとすれば、自分が指代生であり、同級生の仲裁役を担う、少し目立つ存在であることくらいだ。
「どうかしたのか……?」
二人のただならぬ様子に、周囲も訝しく思い始めてきたようだ。
セイランにとっては望ましくない展開だった。
「後ろからぶつかったのだから、フォルスさんが悪いんじゃないでしょうか?」
人垣を縫うように声が放たれた。
可憐な、けれど明瞭な声だ。
現れたのは艶やかな長い髪の少女だった。
白く健康的な肌に丸く大きな目、筋の通った鼻にふっくらとした唇。今まで見てきた誰よりも綺麗な女性だと、セイランが密かに思っていた少女だった。
曇っていた空が晴れ、日が差した。
まるで物語の主人公の登場を告げるように。
「アレシオンさん……?」
ウェンセムの妹、マーティア・アレシオン。
彼女は深緑の髪を靡かせ、二人の側まで歩み寄った。その動作は自然と周囲の目を惹きつける。
「フォルスさん、あなたは十分距離をとってさえいれば、ぶつかることはなかったはずです。
けれど、クラシェイドさんは避けることができません。なぜなら――……」
マーティアは右目をパチリと瞑る。
「目は前についているからです」
くすくすと周囲で笑い声が漏れる。
それと同時に、フラウラの頬にさっと朱が差した。
「私が悪いというのですか!?」
いけない、とセイランは焦る。
誰かを断罪すること。
それは最後に取るべき手段だった。
けれどマーティアの存在はあまりにも鮮烈で、誰彼かまわず圧倒してしまう。
おとぎ話のお姫様はもう、ただの意地悪な令嬢に成り下がっていた。
「私は……」
フラウラは焦ったように周囲を見回した。
けれど、彼女を助ける手は差し出されない。
マーティアによって、咎められる相手が、セイランからフラウラへと移った。
――良くない状況ですね。
内心、セイランも焦っていた。
<王国の天秤>の娘として大学に通っているはずの自分が、"均衡"を崩す要因になってしまっているからだ。
マーティアの擁護により、天秤は今、被害者であるセイランに傾いている。圧倒的にだ。
ここからどうやって"均衡"へと導くのか。
セイランは背中に汗を浮かべた。
――しっかりしなさい、セイラン・クラシェイド。
セイランは自分で自分を叱咤する。
彼女は気付いたのだ。自分もマーティアの圧に飲み込まれていることに。
「ご心配くださりありがとうございます、アレシオンさん。私は大丈夫です」
まずは助け舟を出してくれたマーティアに礼を言う。
その言葉に、彼女は微笑んで返した。
「それから、フォルスさん」
自分に視線を向けられ、フラウラはびくりと体を震わせる。
まるで今から判決を言い渡されるかのような怯えようだった。
「フォルスさんは大丈夫ですか?」
けれど、セイランから放たれたのは、予想外の言葉だった。
責められると思っていたフラウラは困惑したような表情を浮かべる。
「フォルスさんもお怪我をされていませんか?」
セイランはフラウラに目配せをする。
どうか意図を読み取ってくれるようにと。
「えっと、実は少し足を捻って……」
セイランの考えを察し、フラウラは震える声で答えた。
「大変だわ。早く手当をしないと。
私がぼんやりしていたせいで申し訳ありませんでした、フォルスさん」
フラウラに考えが伝わったことに、セイランはほっとする。
――危ないところでした……。
マーティアの登場により、セイランは被害者になった。一方、フラウラは加害者となる。
セイラン自身もこの立場を受け入れ、いつの間にか自分が被害者であると認識していたのだ。
ならば、フラウラも被害者になればいい。
お互いに加害者で、お互いに被害者。
もともと肩がぶつかっただけの、些細で単純な出来事のはずだったのだ。
「どうしたクラシェイド? 何かあったのか?」
「ラバルさん」
心配そうな顔でケイビンがセイランたちの元に近寄る。
五大貴族の令嬢が三人も集まっているのだ。
声をかけるのは躊躇われる状況だっただろう。
「私がうっかりしていたせいで、フォルスさんが足を怪我してしまったのです」
少し印象を操作するため、セイランは言葉を選んだ。
「そうか。失礼」
「ひゃっ」
ケイビンはフラウラの腰と足に手を回すと、ひょいと持ち上げた。
「な、なんてことを!」
「少し我慢してくれ」
ケイビンはフラウラを軽々と持ち上げた。
顔を真っ赤にして俯くフラウラは、まさにお姫様だった。
二人はそのまま療養室へと向かう。
そんな彼らを周囲はどこか羨ましそうな顔をして見送った。
「お騒がせしてすみません」
セイランが頭を下げると、周囲で見守っていた学生たちは、ようやく止めていた足を動かし始めた。
皆が学舎に向かう段階になって、セイランはほっと息を吐いた。
「大丈夫ですか?クラシェイドさん」
「ええ、大丈夫です」
「――嘘」
マーティアはセイランの顔に自分の顔を近づけた。
髪と同じ深緑の瞳が、セイランの顔をぼんやり映す。
「怪我をしていますね?」
どこまでも澄んだ瞳がセイランを捉えていた。
彼女が見つめているのはセイランの姿ではなく、心の中。
敵わないと思った。
きっとどんな感情もばれてしまう。
そんな深くて強い瞳。
「フォルスさん"も"お怪我をされていませんかって聞いてらっしゃったから」
どこかいたずらっぽく言うものだから、セイランはくすりと笑う。
つられたようにマーティアも微笑んだ。
自分の失敗をこんな風に笑い飛ばせたのは初めてだ。
セイランは不思議な気持ちに包まれた。
「療養室まで歩けますか?」
「少しずつなら」
「肩をお貸しします」
セイランは躊躇いながらマーティアの肩に手を置いた。
制服越しに彼女の温もりが肌に伝わる。
マーティアの手がセイランの腰を支え、二人はゆっくりと歩き始めた。
その後ろ姿はまるで、幼き日々を共に過ごした友人のようだった。




