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揺れる天秤

――ライカ、今そちらへ行きますからね。


 貯蔵庫の外に続く小道を走りながら、カティスは友人の顔を思い浮かべた。


――私の初めてのお友達。


 長い間、外に出ることもなく、公爵家の屋敷の中で過ごしていた。

 顔を合わせるのは、数人の使用人と、母と、今は養父となったウェンセムだけ。


――お友達は大事にとお母様はおっしゃっていた。


 病気でやつれながらも、幸せそうに笑っていた母をカティスは思い出す。


――きっとお母様には大切なお友達がいらっしゃったのだわ。


 だから、カティスもずっと夢見ていた。

 もし友人ができたのなら、その時は誰よりも大事にし、かけがえのない関係を築きたいと。


――ライカ、あなたは知らないでしょうね。

 一緒に過ごすその時が、どれほど私が思い焦がれていたものなのかを。


 カティスの目に涙が浮かぶ。

 それはただ一人を想って流される雫。

 よく磨かれた廊下の床に弾け、いくつもの小さな水滴となった。


 ぐらりと視界が回る。


――眩暈が……。


 いつもの症状だ。昔から医者に頼ることの多かったカティスは、少しでも激しい動きをすると、すぐに体に現れた。

 すでに走ることはできなくなっていた。

 酷い頭痛と嘔吐感。

 立っているのが精一杯だった。

 けれど、少女は足を止めない。

 ふらふらとした足取りで、会場となっている広間へと向かった。


――もう少し……。


 廊下の角を曲がり、人垣を抜ければ。

 カティスは誰にも見咎められることなく広間を進む。周囲の目は、一点に向いていたからだ。

 その視線の先――そこには、銀色の杯を持った子どもが一人、佇んでいる。


――ライカ……!


 カティスは叫びそうになった。あの銀色の杯が何なのか、もちろん歳の若い彼女は知らない。けれど、それが友人の命を損なうものであると直感した。


「駄目よ、ライカ! 私は無事だから!」


 咄嗟に叫んでいた。注目されるのが苦手なカティスが。周囲の目が一斉に彼女に向いたが、今はそんなことはどうでも良かった。

 ライカがゆっくりとカティスを見る。

 安堵したように目尻が下がる。

 これで解決したと思った。けれど、ライカは杯を持ったままだ。

 その表情は凪いだように穏やかで、来たるべき時を待っているかのようだった。


――どうして、ライカ?


 カティスは凍りついたように動けなくなった。止めるべき言葉が喉から出ない。ただただじっと、大切な友人を視界に収める。

 ひとつの言葉も聞きもらすまいと、耳を必死にそばだてる。




 ◇




 天秤が揺れている。

 それは銀杯を渡され、記憶を取り戻した時から続いている。

 小さな唇がゆっくりと動く。


「……『エルドガール法大全』第4編・治安と刑律篇・第3章第25条、

 他人を死に至らしめたる者は、殺人罪に準じて処断する。

 また、他人に自殺を決意させ、あるいはその行為を助けたる者も同罪に処断する」


 ライカはゆっくりとその条文を口にする。


――これは決別だ。

 もう、彼女と和解することはない。


 ライカは悲しそうな表情を浮かべ、王国とは――自分とは決して切り離せない存在であるルーカディアスを見た。


「この銀杯を私に飲ませても、それは慣習ゆえに罪に問われないとあなたは主張するでしょう。

 ですが……」


 ライカは銀色の杯を掲げた。広間の照明を反射し、それは月光のようにきらきらと輝いた。


「法は慣習に追いついているのです。

 あなたが隠れ潜んでいる間に」


 ラッカスが裁判官を務めたコルベイン夫妻の離婚裁判。女性であるバレンス夫人が裁判を起こしたのは、結局のところ、時代がそれを求めたからである。


「私がこの銀杯の中身を飲めば、あなたは自殺教唆としてその罪を問われます。

 ――絶対に、彼らが問うでしょう」


 ライカは思い浮かべる。彼らの顔を。だから――……。


「私はこの杯を飲みましょう」


 ルーカディアスの顔が歪む。ライカが何を言いたいのか理解したからだ。彼女はその完璧な表情をついに取り繕えなくなったのだ。


 天秤は揺れる。

 片皿に王国の未来を。

 もう片皿にライカの命を載せて。


「ルーカディアス王弟殿下、法によってあなたは裁かれます。

 法廷にはひとつ、裁判の終わりを告げる木槌が叩かれるでしょう。

 その音はあなたのために鳴るのです」


 人々の息を飲む音が響く。


「ライカネル!」

「止めてください! ライカ!」


 ライカを止める声があちこちから発せられる。どれも聞いたことのある声ばかりだ。


「止めろ! 止めるんだ!」


 ゼナイが一際大きな声を上げる。

 赤い瞳がライカを捉えていた。


――あの目だ。


 ライカは思い出していた。

 彼女を変えたのは赤い髪ではなく、ルビーのように鮮烈な二つの瞳であったことを。

 その瞳がライカを止めている。

 あの時と同じように、生きろと言っている。


――ありがとう、ゼナイ。

 あなたのおかげで私は……。


 あの夜、銀杯を見て全てを諦めた。

 でもすぐに、彼の瞳が絶望の淵から引き戻してくれた。

 だからこそ。


――決断できる。


 ライカは微笑んだ。

 紫色の瞳はガラス玉のように透き通っていた。


「ライカネル……」


 澄んだ瞳の奥に光が瞬く。

 その閃光を見た瞬間、彼は理解してしまった。すでに決断は下されたことを。

 伸びた手が止まり、下へと落ちる。


――私は正義を諦めなかった。


 彼らのために木槌が鳴るのならば、果たして誰のために天秤は傾くのか。


 ライカは冷たい杯に口をつけた。

 目はしっかりと見開かれたまま。


――あなたの色に繋がりを見出したから。


 冷たい液体が喉を通り抜ける。

 呼吸が苦しくなり、足が震える。

 体から力が抜け、床に倒れ込んだ。

 乾いた音を立てて、銀杯が転がる。

 中から指輪がこぼれ落ちた。


――ああ、木槌の音が聞こえる……。


 暗い視界の中、ライカは確かにその音を聞いた。

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