法廷の木槌
「ネイゼン第二王子殿下の生誕祭で襲われた時、私はシルヴィス侯爵閣下に救われました」
静かになった会場に、ライカの声だけが淡々と発せられる。
「そこで知ったのです。
自分は孤独だと思っていましたが、見守る目が、救いの手が――人との繋がりがあったことに」
生きて良いのだという実感は、ライカを変えた。
ようやくそのことを言葉にできた。
「私は王国と切り離せません。
――ですが王国もまた、私とは切り離せません」
ライカの口からは流れるように言葉が溢れた。
ルーカディアスに向けた目は、逸らされることなく彼女を捉えている。どれほど相手の目が歪であろうとも。
「それは誰しも――あなたにも言えることです、ルーカディアス王弟殿下」
ライカがそう告げると、ルーカディアスはどこか苛立ったような表情を見せる。それは一瞬のことで、気がついたのはゼナイぐらいだった。
そのわずかな間に見せた表情があまりにも澱んでおり、彼は思わず剣を持つ手に力を込めた。だが、ルーカディアスはすぐに元の余裕ある態度に戻る。
「それで? 自分には価値があると、そう言いたいのかい?」
ライカは首を横に振った。
「私に特別価値がある訳ではありません。
ただ、銀杯による粛清は弁明の機会を与えない慣習です。
飲まされる者は一方的に損なわれ、それだけ王国は欠けるのです。
それは果たして本当に皆のためでしょうか?」
ライカの問いにルーカディアスは笑いすらしない。どこか冷めた表情で背の低い少女を見下ろした。
「銀杯を飲まされる時点でその罪は明白。
この国を腐敗させる者が欠けて何が問題だというのだ、ライカネル?」
黄金の瞳をさらに歪ませ、ルーカディアスはライカを見やった。
「そうでなければ、あの法廷の木槌は何のために鳴る?
罪を犯し裁かれる者たちは、今もどこかで欠けているというのに」
ライカは一歩だけ前に出た。
ルーカディアスは声にこそ出さないが、目でその動きを追っており、確かに反応を示した。
「何のためにと問う必要はありません」
穏やかな声が広がる。それに見合った表情をライカは浮かべていた。
「あの木槌の音は裁判の終わりを告げる合図。
罪なき者の疑いを晴らし、罪ある者の悪を裁く。
どんな結果であれ、この国は前に進むでしょう。
彼らが王国の一片として裁かれる限り、決して欠いてなどいないのです。ですから……」
ライカは少年の顔を思い浮かべていた。
――エミール……。
二人の道は別れてしまった。けれど、そこに罪があろうとなかろうと、彼らを隔てる壁はない。道がどこかで繋がっているように、ライカとエミールは同じ国に生きている。
そんな彼らのために。
どこかの哀れな罪人のために。
あらゆる無辜な民のために。
このひとつの王国のために。
「あの木槌は鳴っているのです」
気づけば誰もがライカの言葉に耳を傾けていた。あんなにも彼女を追い詰めていた会場の空気は一変し、貴族たちは魔法が解けたようにお互いに顔を見合わせている。
ルーカディアスだけが声を上げる。
「執行する剣がなければ法などただの紙切れ。
正義には決して届かない。
木槌の音が何度鳴ろうと無意味だよ。
――君に価値がないように」
場の流れを変えるために、あえて彼女はライカを嘲るように言い放った。けれど、ライカは表情ひとつ変えない。
「正義は誰にでも平等でなくてはなりません。
ですが、時代や状況によって何が正しいのか、その考えは変わります。
法にそれを表すことは無理でしょう」
それでも、とライカは続ける。
「思考を止めたら終わりです。
正義を見失えば、思想は腐敗し、権力に傾き、信頼を失います。
常に秤にかけ、考え続けなくてはならないのです。
例えどれだけ困難でも、それでも私は……」
ライカは、杯を持っていない反対側の手を握りしめた。手のひらに爪が食い込み、痛みが走る。
「諦めたくないのです」
それは、儚い願いだ。
ライカの手には銀の杯が握られているのだから。
「よくわかった。もういいよ」
興味を失った声でルーカディアスはそう告げると、視線を杯に落とす。早く飲むようにと急かしているのだ。――そして、飲まなければ人質の命はないと。
促されるまま、ライカはゆっくりと銀杯を持ち上げた。
◇
閉じた瞼の裏に、松明の熱を感じる。
床に横たえた体に力を込めそうになり、少女――カティスはゆっくりと息を吐く。
――ばれては駄目……。
目を覚ましていることに。
側には見張りの男が一人、部屋の出入り口を警戒していた。
――どうしてこんなことに。
ユイレンの生誕祭でダンスの相手をする予定であったカティスは、控室で待機していた。そこで待っている間に口にした飲み物に何かが混ぜられていたのか、急な眠気に襲われたのだ。
気づくと、この暗い地下の部屋にいた。ワインの瓶や、食料を詰めた箱が並んでいる。けれど、どれもカビ臭く、口にするには怪しいものばかりだ。
そんな部屋に縄で縛られ、少女は囚われていた。直前まで指につけていた指輪がなくなった状態で。それは、準備祭の夜、ライカと交換したあの緑色の宝石が煌めく指輪だ。生誕祭で大役を任されたカティスは、その心を落ち着かせるため、直前までお守りにと持っていたのだ。
――ライカ……。
それがないということは。
カティスの心には不吉な予感が渦巻いた。
けれど、今はおとなしく心臓の音を鎮め、目覚めたことを隠すより他にはない。
「うっ……」
見張りの男が小さく呻いた。
その声に、カティスは少しだけ瞼を開く。男が膝をつくのがわかった。
「なんだか……眠く……」
そう言うや否や、男は床に倒れ込む。手を必死に動かして、なんとか起きようともがいているが、それも次第に弱まっていく。
――まさか……薬……?
この男もまた、何かを飲まされ、無理やり眠りにつかされようとしていた。
――今なら抜け出せるかもしれない。
けれど、少女は迷っていた。
公爵家の娘として、危険に対処する術は習っていた。このような場合はどうするか。当然、無理に動かず、救助を待つべきだった。
――でも……。
カティスは、縛られた腕を動かす。
自由を奪うはずの縄はすでに切断されていた。
誰かはわからないが、先ほど部屋に訪れた少年により、彼女を縛る縄はいつの間にか切られていたのだ。そして彼は、もう一人の見張りを外へと誘った。――その意味を考える。
――ライカ。
縄が弛み、床にこぼれ落ちる。
カティスは冷たい床から体を起こし、震える足で立ち上がった。
「あっ……!」
その細い足を何かが掴み、カティスは前に倒れ込んだ。
後ろを振り返ると、見張りの男が歯を食いしばり、彼女を睨みつけている。
「ごめんなさい……」
カティスは両手で男の手を持ち、ゆっくりと引き剥がした。少女でも抗えるほど、今の男の手には力がなかった。
男は悔しそうに手を伸ばす。けれど、カティスは振り返ることなく部屋を出た。




