王弟の目的
「純粋なる毒は銀を傷めないのだよ」
ルーカディアスは日常の何気ない会話でも紡ぐかのようにそう告げた。
――飲めばおそらく死に至る……。
銀杯の中に注がれた透明な液体。
きっと一口で命を奪う、そんな猛毒に違いない。
ライカは額に汗を浮かべる。
透き通るようなその表面に映る自分の顔は、歪な形をしていた。
「<王国の甲冑>は来ないよ。こんな事態だ。
優先すべき人は決まっているから」
囁くような声で彼女は笑う。
ライカにもわかっていた。これほどまで会場が混乱に陥りながら、それでもリーディスが来ない理由を。彼はこの非常事態にその最たる義務を果たそうとしているのだ。
――全てがこの人の思惑通り……。
ルーカディアス――彼女はメザーニャに送られており、エルドガールにいてはならない人物である。それでも堂々と王宮まで足を踏み入れたのは、それだけの自信と、そして目的があってのことだ。
「あなたの目的は……」
ライカにはもう、予想がついていた。
<王国の天秤>を〝銀杯〟にて殺害すること。
それは特権の権威を削ぎ、王権を貶める行為。
――政変。
ルーカディアスが行おうとしているのは正にそれだ。王位継承問題を長引かせている間に国王を手にかけ、残る王子を始末すれば、王位に就くことは可能なのだ。
ミンタスタ王立図書館で調べた限り、エルドガールで政変と呼べる事件が起こった記録はない。あったのは王族や有力貴族同士による派閥争いだ。
――おそらく、彼女のやり方なら血が流れる。
ナザリウスを何らかの方法で玉座から退けた後、例えばユイレンが王位に就いたとして、ルーカディアスは毒殺などで彼を殺すだろうか。答えは否だ。武力を用いたより過激な方法で新たな国王を殺害し、王宮を乗っとるはずだ。自分の力を見せつけるために。
「うん、合っていると思うよ」
ルーカディアスは頷いた。ライカの心の内をどれだけ察しているのかはわからないが、肯定する方が良いと判断した結果だ。――少女の心を乱すために。
ライカは杯を見る。
滑らかに磨かれた表面に、薄く紋様が刻まれていた。
「……初代エルドガール国王陛下・エリオネス様。
かの方が自らの権利を五人の貴族に分け与えたのには、深い理由があるのだと思います」
ライカの言葉に、ルーカディアスは浮かべていた笑顔をわずかに揺らす。そのことに気付きもせず、ライカは続けた。
「特権として五大貴族に分配することが、エルドガール王国にとって長き〝安定〟をもたらすとお考えになられたのでしょう」
実際、他国による甚大な侵略も、国を脅やかす政変も起きることなく、エルドガールは歴史を築いてきた。
「五つの特権の中でも、<王国の天秤>である私を警戒し、〝銀杯〟を渡す理由……」
祖父の日記に綴られたその文字が頭に浮かぶ。
――正義。
ライカは紫色の瞳を見開き、ルーカディアスを凝視した。
「エリオネス初代国王陛下はクラシェイドに正義を託したのです。
王国民はクラシェイドを正義と信じ、もし、王国を腐敗させる国王が立てば断罪することを望みました」
クラシェイドはエルドガール王国において、正義の象徴だった。どれだけ<王国の天秤>が正義について迷おうとも、それでもクラシェイドはその言葉を背負って裁かねばならない。
そんな正義がクラシェイドから離れたのは、曽祖父であるイドルの代だ。王子たちの継承争いを止めることができなかったイドルは、正義とは何かを問いなおさざるをえなかった。
――お祖父様は気づいていた。
クラシェイドが正義の象徴であったことも、それを忘れさせようと暗躍する存在がいることも。
「<王国の天秤>が正義である限り、いくら政変を起こして国王になろうとも、民からは悪として認識されてしまいます。
――だからあなたは何よりも私を排除しようとしたのです」
幼く未熟だったライカの評判を落とすのは簡単だっただろう。今も、彼女は多くの貴族たちから冷たい目を向けられている。
「素晴らしい推察だったよ」
ルーカディアスは大きく手を叩いた。会場の視線は、一斉に彼女へと向けられる。
「けれどね、ライカネル。
結局、〝銀杯〟を渡す正当性は変わらないと思うんだ」
少しだけ悲しむような表情を浮かべると、彼女は円を描くように、よく磨かれた床の上を歩いた。
「たび重なる失態により、〝正義〟に対する信頼を君は揺るがしてしまった。
もう誰もクラシェイドを正義とは思えない。
――それは王国を裏切る行為だ」
ライカの言葉をさらいながら、ルーカディアスは静かに追い詰める。結局は、銀杯の中にある毒を飲ませるために。
「私は……」
「この期に及んで見苦しいぞ。早く飲んだらどうだ?」
ルーカディアスの背後に控えていたアドルグが、ライカを急かし始めた。彼は周囲をきょろきょろと挙動不審に見回している。――誰かの存在を警戒して。
「私がこれを飲めば王国が、ひいてはあなた自身も危ないとわかっているのですか?」
ライカはアドルグに尋ねた。その声は乾き、反響することなく広間に消えた。
「何を馬鹿な。危ないことなどありはせん。
――あるとしたら、それはお前だ、ライカネル・クラシェイド」
アドルグは確信した表情をしていた。ルーカディアスのことなど何ひとつ疑っていないようだ。そして、ライカを敵として認識している。この王国の。
これを飲めば一人の人間が死ぬ。
その意味を彼は理解しているのだろうか。
杯を持つ手に力が込められる。その手はかすかに震えていた。透明な液体に波紋が広がり、そこに映る天井の景色を不気味に揺らす。
「――動くな!」
広間に声が響いた。
低く、けれどよく通る声だ。
燃えるような赤い色が目に入った。
それはゼナイの赤い髪。
剣を抜き、ゆっくりとした足取りでこちらに近づいて来る。
「<王国の長剣>の特権を行使する!
この王宮の会場はこれよりシルヴィス騎士団が制圧する!」
ゼナイの号令と共に、シルヴィスの騎士たちはルーカディアスたちをぐるりと取り囲んだ。
――ゼナイ……。
追い詰められていたライカは、彼の登場に手の震えが止まる。
――そうだ、私は……。
ゼナイの鮮烈な赤に目が覚めて変わった。
生きても良いのだと思った。
それは孤独に生きていた自分が、誰かと繋がっている確かな実感だった。
「王弟に剣を向けるとはね」
こんな状況なのにルーカディアスは余裕だった。その理由はなぜか、ライカは知っていた。慌てて彼女はゼナイを止める。
「待ってください! 傷つけてはいけません!」
ライカの制止にもゼナイは止まらない。
「そんなことを言っている場合ではないだろう、ライカネル! その杯は何だ!?」
「……カティスが!」
「駄目だ」
懇願するライカの言葉にもゼナイは動じなかった。剣を持つ手は掲げられたまま、騎士たちに捕縛を促す。
――知っているんだ。カティスのことを。
おそらく、彼は国王の護衛に回ったリーディスと入れ替わりでこの場に来たのだ。ならば、カティスが何者かに拐われたという情報を得ていてもおかしくない。
ライカは震える声を絞り出した。
「――もし、私を五大貴族と認めるなら……」
ゼナイの視線がこちらを向く。彼は間違いなくライカの声に耳を傾けていた。
「どうか、今はその剣を下ろしてください」
広間に静寂が訪れる。
五大貴族。
ゼナイはその言葉に反応していた。
先ほどのやりとりを聞いていたわけではない。それでも彼は、この場での重みを理解していたのだ。
王国を安定させるために特権を与えられた貴族。
彼らが尊重すべきは何か。
ゼナイにしては珍しく、考え込む時間が流れる。
「――止めろ」
やがて、ゼナイは短く命令を下した。
騎士たちは戸惑いながらも団長の命令に従い、剣を下ろした。
その様子を面白そうに見つめながら、ルーカディアスは満足そうに頷いた。
「私はね、ライカネル。
君が君なりに頑張っていたとは思っているよ」
白々しい声が広間に反響する。ライカと違って、彼女の声は計算したようによく響く。
「それが上手く結果に出なかっただけ。
――それでも君は王国のために死ねるかな?」
それは、ライカの自死を促す誘い。誰もが、その時を待つように息を潜めていた。
――カティス……。
銀杯の中に沈んだ指輪。
淡い緑の宝石がきらきらと輝いている。




