私が行くから。
【前回のあらすじ】
六月の日曜、佐保は月に一度の実家へ。母の話はいつもの順番で進み、図鑑の話は最後まで切り出せなかった。親戚の子の絵の話のついでに母が漏らした、懐かしそうな一言。それが佐保の記憶と、どこか、温度が合わなかった。
◇ ◇ ◇
うちの主任が、フロアの前に立つときは、いつも半歩だけ下がる。前に出るのは、たいてい、別の会社の人だ。
始業の十五分前だった。まだ半分ほどの席しか埋まっていない。フロアのいちばん前で、業者の人が、壁に画面をつないでいた。ケーブルを押し込む音が、思ったより大きく響いた。話し声のしない部屋では、物の音だけが、よく聞こえる。
刷新を請けた業者の人だった。三十くらいの、背の高い人で、社員証を首から下げている。紐が、うすい水色だった。うちのは、紺だ。首から下がっている紐の色で、どちらの会社の人かが分かる。
主任が、その隣に立った。五十くらいの人で、声が小さい。
「十分だけ、お願いします」
主任が言って、半歩、下がった。
「新しいナレッジベースの、テスト環境が用意できました」
業者の人が言った。
テスト環境、というのは、いま動いているものとそっくり同じ形のものを、別に一つ作ってある、ということだ。
「一人ひとつ、記事を入れてみてください。動くかどうかの確認です。本番とは切り離してありますので、何が起きても、お客様のほうには影響が出ません」
私は、その説明を、頭の中でもう一度なぞった。形だけが本物で、中には誰もいない。私は、そういう場所を、一つ知っている。
九時になって、最初の一件が入ってきた。
十時半に、日野さんが来た。机の端に飴を置いて、すぐ戻っていった。
「はい」
午前の四件目が、長くなった。
『どこに書けばいいのか分からなくて、ここに書いています』
一行目が、それだった。品物の名前も、型番も、出てこない。それでも、この人は、どこかに書いた。まず、それを受け取らないといけない。
『大丈夫です。ここで、うかがいます』
そう書いてから、ひとつずつ狭めていった。その人は、答えながら、だんだん短く書くようになった。短くなるのは、こちらへ渡すものが減っていくときだ。この人のは、違った。減ったのではなく、どれを渡していいのかが、分からなくなっていた。最後に残ったのは、時計の表示が一時間ずれる、という話だった。
『こちらで合っていたんですね』
最後に、その人はそう書いた。
合っていた、と書いた人は、その前に、どこかで間違えている。この人は、どこを回ってここへ来たのだろう。聞かなかった。聞くところではない。
昼、郵便の棚を見にいった。
封筒が一つ、入っていた。会社の宛名の下に『係の方へ』とある。裏には、住所だけが書いてある。この人の封筒に、名前が書かれたことはない。
大きくて、まっすぐな字は、今月も、なかった。
席に戻って、封を切った。用件は、三行だった。去年しまった扇風機を出したら、匂いがする。使っていいものかどうか、分からない。それだけだった。天気のことも、窓の話も、書いていない。この人の手紙は、いつもそうだ。
昼休みは、あと四十分あった。
打って、印刷した。しまう前に洗えるところと、洗えないところ。回す前に、窓を開けて、しばらく置くこと。紙に入るのは会社の名前だけで、書いた人間の名前は、出ない。
島の端のプリンタまで、十歩ほどある。取りにいくまでが、いちばん落ち着かない。
席に戻って、印刷した紙の下に、手で、一行だけ書いた。品物でないことを、一行だけ。
『梅雨のあいだは、無理に使わなくても、大丈夫です』
この一行は、打たない。機械を通せば、どこかに残る。手で書いたものは、この紙のほかに、ない。
宛名は、住所の上に、お手紙をくださった方へ、と書いた。名前を知らないので、それしか書けない。向こうも、係の方へ、としか書かない。ずっと、そうやって往復している。
封をして、発送の箱に入れた。明日の朝、総務の人が、ほかの郵便と一緒に持っていく。会社に来た紙に、会社から返事が出る。誰も、中は見ない。
午後いちばんに、業者の人がもう一度フロアに来た。
「旧マクロのことが分かる方に、一人、入っていただきたいんです。移す前に、中身を見ておきたくて」
誰も、手を挙げなかった。
旧マクロを書いたのは、私だ。ぜんぶではないが、多くは。手を挙げればいい。挙げて、行って、順番に説明すればいい。あれは、こういう客のときに使います。あの一行は、わざと入れてあります。――そこまでは、頭の中で、一息だった。
口の中で、息が、一度止まった。
指が、キーから離れていた。
日野さんが、こちらを見た。
「宇津木さんは、いいのよ。私が行くから」
助かった、と思った。知らない人の前に座って、順番に説明する。想像しただけで、手のひらが冷たくなる。日野さんは、それが私にできないことを知っている。誰かに聞かれる前に、言ってくれた。
私が書いたものの話が、私のいない部屋で、始まる。
「じゃあ、お願いします」
主任が言った。それから、私のほうを見た。
「宇津木さんは、入れるほうだけ、お願いします」
「はい」
二つ目だった。
三時をまわったころ、日野さんが戻ってきた。
まっすぐ自分の席に座った。私の机の横を通ったのに、何も言わなかった。画面を開いて、閉じて、また開いた。それから湯のみを持って立ち上がって、持ったまま、座った。
私は日野さんのほうを見ないようにして、様式を開いた。
入れるところは、すぐに分かった。件名、本文。それだけの画面だ。一つだけ、保存のボタンが、すぐには見つからなかった。画面の下のほうにあるらしい。下まで送れば、たぶん、出る。
送らなかった。
手を、キーの上に置いたまま、動かさなかった。
私の書いたものの中に、『呼ばなくていい。見えるところで、止まっていればいい』という一行がある。五月の夜から書いているものだ。書いたときは、その人の扱い方のつもりだった。
半分は、本当だった。ボタンは、探していた。やめただけだ。
しばらくして、椅子の動く音がした。
「どこまでいった」
日野さんだった。私の画面をのぞいて、指で下のほうを示した。
「ここ。下まで行かないと出ないのよ、これ。分かりにくいわよね」
「はい」
「練習だから。間違えても、消えるだけだから」
日野さんの声は、いつもの高さに戻っていた。
効いた、と思ってしまった。効く、というのは、品物について使う言葉だ。
自分の手のひらを見た。何も、持っていなかった。
午後の返信は、十八件だった。あわせて、三十件。
五時半をまわってから、私は様式をもう一度開いた。
件名の欄に、書式の決まりがあった。
『件名は、◯◯対応マニュアル、の形でそろえてください』
◯◯に入るのは、品物の名前か、困りごとの型だ。
私は、本文の欄から書いた。
打ち直すのは、思っていたより、速い。写しているのではないからだ。読むほうが、遅い。私は、読まずに打った。一行ずつ、また書いた。書いたものは、書いた人間の指に残っている。十年、声の代わりに使ってきた指だ。人が一つの文を言い終わるくらいの時間で、私は、その文を置ける。音は、しない。
二十分は、かからなかった。
顔を上げると、フロアは半分ほどになっていた。誰も、こちらを見ていない。私は、言われたとおり、記事を一つ入れているだけだ。
残っているのは、件名の欄だけだった。
名前の欄を空けておけば書ける、と五月に思った。空けたまま書いたので、本文にも、名前はどこにも入っていない。外から読めば、これは人の話ではない。困った人への、返し方の手順だ。
あとは、どの困りごとの下に置くかだけだった。
『手順どおりにやったのに直らない対応マニュアル』
客の型だ。うちのフロアで、いちばん多いかもしれない。書いてあるとおりにやっている。それでも直らない。そう言ってくる人に、何を、どう返すか。
迷わなかった。
指が、一度、止まった。
昼に書いた一行には、宛先があった。これには、ない。
保存を押した。一覧に、行が一つ増えた。ほかの行と同じ字で、同じ幅で並んだ。番号も、日付も、自動で付いた。どれがどれだかは、もう分からない。
この一覧は、本番のものと、そっくり同じ形をしている。中身が空なだけだと、朝、あの人は言った。
いまは、空ではない。
六時を過ぎていた。鞄を持って立つと、ドアのところで、日野さんが片手だけ、ひらりと振った。それでいい、というふうに。私は、頭を下げた。
◇ ◇ ◇
今日の返信、三十件と、手紙一通。
今日の発話、「はい」三回。




