名義は、どうしますか。
【前回のあらすじ】
新しいナレッジベースのテスト環境ができ、一人ひとつ記事を入れることになった。旧マクロの分かる人を求められ、佐保は手を挙げられなかった。日野が先に、私が行くから、と言った。夕方、佐保は五月の夜から書いていたものを打ち直し、名前のないまま、対応マニュアルの一つとして保存した。
◇ ◇ ◇
雨は夜のうちに上がっていて、空気がまだぬれていた。横断歩道の白いところが、少し光っていた。会社の手前の信号は、赤が長い。
隣に誰かが来て、止まった。止まってから、こちらを見た。
名刺の人だった。角ばって膨らんだ鞄も、先月の朝と同じだった。
その人は、すぐに信号のほうへ顔を戻した。先月は、少しだけ体をこちらに向けて立った人だ。
「この前の続きです」
前を向いたまま、その人は言った。
「困りごとの種類で、分けてみました。十と少しになります」
十年、書いた順に埋めてきたものだ。書いた順のほかに、並べ方を考えたことはなかった。
「どこまで入れるかは、今月のうちに決めたいんです。契約の話は、そのあとで」
あなたですか、と聞かれたら、と思っていた。鞄越しに、内側の仕切りのあたりに手を当てた。
その人は、聞かなかった。車が一台、水を切って前を通った。
「それと、名義は、どうしますか。本名か、サイトの名前か」
ほかの話と、同じ声だった。鞄の持ち手が、手のひらの中で少し滑った。その人は、私の名前を、まだ一度も聞いていない。
向こう側の人たちが、傘を提げて歩きだした。その人も、前へ出た。
じゃあ、メールで、と言うつもりだった。先月、その人が置いていった言葉だ。唇はその形に動いたが、声はついてこなかった。
私も、その青のうちに渡った。横断歩道の先で、その人は会社とは反対のほうへ曲がっていった。会社までの残りを、いつもより速く歩いた。
打っている手の横に、飴が一つ置かれた。十時半だった。
「はい」
昼休みに、郵便の棚を見た。空だった。午後は、件が途切れなかった。
四件目は、掃除機だった。
『吸わなくなりました。買って二年です』
吸わなくなった、の中身は、たいてい三つのどれかだ。ごみを捨てたか。ブラシに髪が巻いていないか。ホースが詰まっていないか。二つ目を書いたところで、返事が来た。
『巻いていました。すみません、こんなことで』
こんなことで、のところには、何も書かなかった。取り方の手順だけ書いて、閉じた。
帰り支度をしていると、日野さんが言った。
「七月に、ぜんぶ新しいほうへ移すんですって」
「はい」
外に出ると、細い雨だった。傘を差して、駅まで歩いた。
電車では、扉の横に立った。目の高さに、本の広告が貼ってあった。表紙の写真の横に、こうあった。
『ていねいに生きたい人へ』
降りる駅の改札を出たところに、本屋がある。寄っていくことにした。
入口で、傘をビニールの袋に入れた。広告の本は、入ってすぐの台に表紙を上にして積んであった。台の前に人がいたので、雑誌の棚の前で待った。
人がいなくなってから、手に取った。表紙の字より、帯の字のほうが大きかった。
『三十年、教壇に立った元教師の、はじめての本』
裏返すと、書いた人の経歴が続いていた。表紙の端に指をかけて、そのまま元の山に戻した。
店を出ても、まだ降っていた。いつものところで、立った。傘を持ち替えるまで、決まらなかった。一枚だけ撮った。
部屋に帰って、明かりをつけると、机の上に先月の夜に置いた名刺がそのまま置いてある。
今日の一枚を印刷して、窓の下に貼った。ピンは入ったが、紙が少し下がった。指一本ぶんずらして、刺し直した。
鞄の内側の仕切りから、手帳を出した。
開くと、梶亮太、と、先月の日付だけの行がある。その下に、一行ある。
『私が書いています』
質問は、書けなかった。代わりに、答えのほうを書いた。
さらに下に、日付が並んでいる。朝、家を出る前に一つずつ足してきた日付だ。どれも、同じ大きさの字だった。いちばん下が、今日だった。
今日の日付の横に、名義、と書いた。
その二文字を、しばらく見ていた。
墓地を開いた。隅の数字は、見なかった。一覧は、書いた日付の新しい順に並んでいた。これまで、書いたら閉じてきたので、下まで見たことはなかった。
いちばん下まで、たどった。十年前の夜の日付があった。
この並びが、十と少しの種類に分け直されて、紙になる。知らない誰かが、どこかの一行で手を止める。
そう思ったところで、胸のあたりで、何かが少し浮いた。何なのかは、分からなかった。こわいのとは、少し違った。
送れば、あの人は、書いている人間を知る。その次には、本名か、という問いがまた来る。
一覧を閉じた。
名刺の角の潰れたところを指で押さえて、宛先を打った。本文の一行目は、これにした。
『じゃあ、メールで』
その下に、手帳の一行を写した。
『私が書いています』
もう一行、足した。
『急がなくて、大丈夫です』
三行を打つのに、一分もかからなかった。送信を押した。明日の朝、手帳に足す日付は、もうない。
◇ ◇ ◇
今日の返信、三十一件。
今日の発話、「はい」二回。




