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ご存じの方、いませんか。

【前回のあらすじ】

 先月と同じ朝の信号で、梶がまた隣に立った。前の続きを話し、名義は本名かサイトの名前か、と聞いて、先に渡っていった。佐保は、声が出なかった。その夜、名刺の宛先へ三行のメールを送った。私が書いています、とは書いたが、名義には答えなかった。


◇ ◇ ◇


 名簿は、あと三人だった。三日目の昼休みだ。


 月曜の朝に、総務の人がフロアを回った。毎日、郵便を配りにくる人だ。六十くらいで、背中が少し丸い。フロアの人とは、ほとんど口をきかない。


「私書箱(ししょばこ)、十月で終わりになりますので」


 入口のところに立って、そう言った。


「終わりの案内を、出しておきたいんですが。どなたに出せばいいか、ご存じの方、いませんか」


 キーの音が、少しだけ小さくなった。


 近くの人が、顔を見合わせた。


「うちに来る郵便じゃ、ないよね」


 私の口の中では、言葉が、もうできていた。知っています、の六文字だ。


 出ていかなかった。


 総務の人は少し待って、それから出ていった。台車の音が、廊下のほうへ遠ざかった。


 私は、全員を知っている。宛名も、住所も。十年、一通ずつ返してきたのだから、知っている。


 言えばよかった。言えば、案内は出る。


 けれど、知っています、と言うには、なぜ知っているのかを言わなければならない。


 入口から私の席までは、島を二つ越えるだけだった。


 メールなら、この前、書けた。


 総務の人が出ていってから、私は自分の画面に戻った。戻ってから、気がついた。


 案内は、出ない。


 紙で書いてくる人たちは、知らないまま、また書く。書いた紙は、どこにも落ちてこない。


 その日の昼休みに、スマホを見た。来ていなかった。それから棚を見て、席に戻って、控えのフォルダを開いた。


 何をするつもりなのかは、開いてから分かった。


 控えは、年ごとに分かれている。書いた順に並んでいる。開いて、宛名と住所を写して、閉じる。次を開く。十年、書いたら閉じて、読み返さなかったものだ。


 控えに残っているのは、打った部分だけだった。宛先と、品物の直し方と、会社の名前。印刷したあとに手で足した一行は、どの控えにもない。あれは、出した紙にしか書いていない。


 それでも、返事を見れば、何を聞かれたかは分かる。書いた手順の形で、向こうの困り方が残っている。


 年が進むほど、文が短くなっている。うまくなった、というより、余分をひとつずつ、落としてきただけだと思う。


 名前の読み方の分からない人が、一人いる。十年、私はその字をそのまま写してきた。読み方を確かめる方法が、こちらにはない。


 三年目の途中で、昼休みが終わった。


 同じ人の控えが続く年があって、手間がかかった。同じ人が何通書いたかは、名簿には要らない。要らないのに、数えてしまった。


 電気ポットの人は、四年ぶん出てきて、そこで終わっていた。最後の控えは、お湯が熱くなりすぎる、という話だ。直し方は短い。何度か同じことを書いているので、たぶん、直らなかったのだと思う。


 三日目の朝も、飴が来た。


「はい」


 午前のあいだは、開かなかった。


 昼休みに、残りを写した。


「休まないの」


 日野さんが、通りがかりに言った。


「はい」


 日野さんはそれ以上は聞かずに、休憩室のほうへ歩いていった。


 三日かけて、二十六人になった。


 そのうち何人が、まだ書くつもりでいるのかは、分からない。三か月空く人がいる。半年空く人もいる。


 毎月きちんと来ていたのは、一人だけだった。だから、その人の沈黙だけが、測れた。


 誰も、名簿から外せなかった。外すには、もう書かない、と決めなければならない。決める材料が、どこにもない。


 中津タエ、と打って、住所を写した。


 その一行だけ、二度、見直した。


 二十六人を、届いた順に並べた。会社の様式に貼って、体裁を整えた。番地の書き方がそろっていないところを、そろえた。郵便番号の抜けを、二つ埋めた。


 様式の下に、作成者の欄がある。


 カーソルが、その欄で止まった。しばらく、そこでついていた。それから、別のところへ移した。


 空けた。


 手渡すのは、できない。渡すときに、何か言うことになる。社内の便で送れば、送った人の名前が残る。郵便の棚なら、あの人は毎日来る。けれど、棚に置いた紙は、郵便に見える。郵便に見えたら、どこかの部署の棚へ仕分けられて、そこで止まる。


 紙の頭に、何の紙かを書いた。


『私書箱 差出人一覧』


 その下に、もう一行足した。


『十月末までに、終了の案内をお出しいただく先です』


 印刷して、島の端まで取りにいった。誰も、こちらを見なかった。


 郵便の棚に置いた。私が十年、毎日見にきた棚だ。宛名のない紙が、そこに落ちてくるのを、ずっと見てきた。


 席に戻って、午後の一件目を開いた。


 打ちながら一度、棚のほうを見た。次の一件が入ってきた。しばらくして、椅子を少し引いた。次の一件が入った。椅子を戻した。


 六時に、画面を閉じた。


 退勤のとき、日野さんが顔を上げた。


「おつかれさま」


「はい」


 ドアのほうへ歩く途中で、郵便の棚の前を通った。


 紙は、まだそこにあった。


  ◇ ◇ ◇


 今日の返信、三十件。


 今日の発話、「はい」三回。

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