返事は、いりません。
【前回のあらすじ】
発注元の黒岩は、決裁の済んだ効率化の根拠を、私物のノートで検算した。根拠の表には、また開く件の列がなかった。佐保の番号のゼロは、平均の中に溶けていた。新しい定型文の検収で、黒岩は修理ができないときの案内に赤を入れ、一行だけ、覚えていた行を書き入れた。
◇ ◇ ◇
会社まで、あと信号一つ、というところで、隣に人が立った。
朝の信号待ちに、人が並ぶのは、ふつうのことだ。通勤の人たちは、隣に立っても、隣にいない。目も合わせないし、口も利かない。他人のままでいる、という約束が、朝の道には敷いてある。私は、その約束の中でなら、人のそばに立てる。
ふつうでなかったのは、その人が、私のほうに、少しだけ体を向けて立ったことだった。約束が、崩れる向きだった。三十代の半ばに見える男の人だった。仕事用の、飾りのない上着を着ていた。大きな鞄が、角ばって膨らんでいた。本の形だ、と思った。角の潰れ方で、詰めてある量まで、なんとなく分かった。思ったところで、その人が口を開いた。
「読まれない文章の墓地、という場所があります」
道の音が、遠くなった。
その名前は、聞いたことがある。当たり前だ。私が、十年前の夜に、つけた名前だ。会議室で、みんなの笑い声の中に置かれたのを、聞いたこともある。けれど、誰かが、私に向かって、その名前を言ったのは、はじめてだった。みんなの真ん中に置かれるのと、私一人に向けて置かれるのとでは、同じ名前が、ぜんぜん違う重さをしていた。
私は、何も言わなかった。言わなかった、というより、声のある場所が、急に、閉まった。締切の過ぎた窓口みたいに、静かに、閉まった。
顔を、見た。読もうとした。画面の向こうの人なら、行の間まで読める。読むのが仕事だ。けれど、目の前の顔は、近すぎて、読めない。この人が、何をしに来たのか。善いものなのか、悪いものなのか。怒っているのか、急いでいるのか。文字にしてくれれば分かることの、どれ一つ、この距離では分からなかった。読めない相手の前で、私は、いちばん、何もできない。
男の人は、私の返事を、待たなかった。待たずに、続けた。
「あれを、本にしたいんです。困った客への、公式には送れなかった返信の、文例集。書いた順に積んであるだけで、分類がされていない。困りごとの種類で分け直して、並べて、紙にする」
声は、平らだった。売り込みの声というのは、もっと熱があるものだと思っていた。この人の声には、それがなかった。締切の話をするみたいに、部数の話をするみたいに、ただ、用件だけが、順番に出てきた。
「サイトは、検索の道具です。何を探しているか、名前の分かっている人しか、引けない。本には、目次と、ページがある。名前を知らない人が、めくって、出会う。だから、紙にする意味がある」
信号は、まだ赤だった。
私はその言葉を聞いていた。聞いてはいたけれど、途中から、うまく入ってこなかった。どこかで、一句、引っかかった。引っかかった、という言い方も、少しちがう。刺さった、のほうが近い。どこに刺さったのかが、分からない。分からないまま、息が、途中で止まっていた。
この人は、私のことなど、何も見ていない。紙にする意味の話をしているだけだ。それなのに、と思って、その先が、出てこなかった。
名刺が、差し出された。
受け取るつもりは、なかった。なかったのに、手が、受け取っていた。声より先に手が動くのは、いつものことだ。十年、声の代わりに、手で返事をしてきた。その手が、勝手に、返事をした。
「返事は、いりません」
その人は言った。
「今は」
それから、言った。
「人違いなら、この名刺は、捨ててください」
信号が、青になった。
「じゃあ、メールで」
それだけ言って、その人は、横断歩道を渡っていった。私は、渡らなかった。渡れなかった。名刺を持った手が、下ろせないまま、そこにあった。あの人は、私が書き手かどうか、一度も聞かなかった。あなたですか、とも、ちがいますか、とも。聞かれていたら、私は、首を横に振れたかもしれない。振る場面が、最後まで、来なかった。否定は、聞かれた人にしか、できない。
次の青で、私は渡った。渡りながら、鞄の持ち手を、強く握っていた。握った手のひらに、名刺の角の感触が、まだ残っていた。道の音が、少しずつ、戻ってきた。
フロアは、いつもどおりだった。私だけが、いつもどおりではなかった。
十時半に、日野さんが机の端に飴を置いた。
「あったかくなってきたね」
いつもの、みかんの飴だった。私は、はい、と言おうとした。
出なかった。
口は、動いた気がする。息も、出た気がする。声だけが、出なかった。朝、閉まった窓口が、まだ、閉まったままだった。私は、頭を下げた。日野さんの手が、半拍、止まって、それから、いつもどおり離れていった。何も、聞かれなかった。
十年、毎日言えていた一語が、言えない日が来るとは、思っていなかった。
私は、自分の発話を、数えている。毎日、寝る前に、その日声に出した言葉を、実物のまま、書きつける。十年続けてきた、私だけの帳簿だ。昼を過ぎたころ、気がついた。今日の欄が、まだ、空いている。一語も、入っていない。数えるものがない、という数え方を、したことがなかった。
作ろうと思えば、作れる。誰かの席へ行って、何かに、はい、と言えばいい。一語あれば、欄は埋まる。埋まらないのは、言えないからだ。それに、埋めるために作った一語は、発話ではない。帳簿のための帳簿になる。記録は、直せない。直したら、それは、記録ではない、別のものになる。私は、空いた欄を、空いたままにしておくことに、決めた。決めた、というより、それしか、できなかった。
手は、ふつうに動いた。それが、自分でも、おかしかった。画面の中の私は、いつもどおりだった。丁寧で、遅くて、最後まで聞く。声の窓口は閉まっているのに、指の窓口は、開いている。私という人間は、たぶん、最初から、指のほうにいる。
打ちながら、朝のことを、考えないようにして、考えていた。
どうやって、私にたどり着いたのか。
サイトに、私の名前は、どこにもない。開設のときに、置かなかった。誰かとやりとりをしたことも、ない。分からない道を通って、あの人は、朝の信号に立っていた。
会社のごみ箱の前を、今日、私は、二回通った。
昼休み、名刺はまだ手元に残っていた。それを、鞄の内側の仕切りに、移した。捨てるなら、会社のごみ箱がいちばん近かった。移した、ということは、そういうことだった。
午後も、手は動いた。夕方までに、あわせて三十二件になった。いつもと、変わらない数だった。今日の私の中で、いつもと変わらなかったのは、この数字だけだった。
退勤のとき、私は、お先に失礼します、と言おうとした。口の形まで、作った。出なかった。私は近くの何人かに頭を下げた。何人かが、うなずき返した。声のない挨拶でも、挨拶にはなった。なった、と思うことにした。頭を上げるとき、ひきだしの中の飴を思い出した。たまった飴のいちばん上に、今日の一つが、はい、を付けないまま、載っている。
帰り道、いつものところで立ち止まった。スマホを取り出して、しゃがんで、一枚だけ撮った。何を撮ったかより、いつもどおり撮れたことのほうが、大事な日だった。
部屋に帰って、明かりをつけた。名刺を机に置いた。
小さな出版社の名前と、梶亮太、という名前があった。編集、という肩書きと、メールの宛先。それだけの、紙だった。厚みのある、白い紙で、角が一つ、少し潰れていた。あの鞄の中の潰れ方と、同じだった。私はその紙を、しばらく見ていた。その私の机の上に、他人の名前が、姓も名も、載っている。名前というのは、こんなに、うるさいものだったか。
メールの宛先を、一度だけ、目でなぞった。なぞっただけだった。
手帳を、開いた。
書くことは、決めていなかった。開いてから、決めた。名前と、今日の日付だけ、書いた。梶亮太。それから、日付。手が、それ以上を書くのを、やめた。分類の欄も、用件の欄も、いらなかった。その行は、手帳の中で、少し、浮いて見えた。浮いたまま、そこにあった。その下は、空いていた。
捨てて、いなかった。
◇ ◇ ◇
今日の返信、三十二件。
今日の発話、なし。




