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枠は、触るな。

【前回のあらすじ】

 チャットサポートで働く宇津木佐保。画面の中では何十人もの客と話すのに、その日、声に出したのは四語だった。退勤まぎわ、部署に一本だけ残る外線が鳴った。受話器を取った日野の声が途中で止まり、口だけが、佐保の名を呼んだ。


◇ ◇ ◇


 噂のある朝は、静けさの種類が違う。


 フロアはいつも静かだ。話し声がしないから。けれど今朝の静けさには、キーボードの雨のような音の下に、もう一枚、別の静けさが敷いてあった。私が通ると、近くの手が、一瞬だけ止まる。目が合うと、そらす。そらしたあとで、また打ちはじめる。私はその音の中を、自分の席まで歩いた。


 昨日の、あの電話のことだ。何を言われているのかは、はっきりとは分からない。それでも、いくつかの言葉は、耳のほうから勝手に立ち上がってくる。警察。通報。その二つの言葉の間に、みんなが、それぞれの話を入れている。どの話も、少しずつ、私の知っていることと違う。たいていは、私が実際にしたことより、悪い。ちがいます、と言えればいい。けれど、ちがいます、と言うためには、本当のことを言わなければならない。本当のことは、もっと言えない。だから、間違ったままの話が、フロアを回っていく。私は、それを、止めない。止められない、というより、止めない。


 私は読む側のはずだった。なのに今朝は、私のほうが読まれている。しかも、間違って読まれている。


 日野さんが、いつものように机の端に飴を置いた。今朝のそれは、いつもより少し長く、そこにあった気がした。指が離れるまでの時間が、半拍、長い。


「はい」


 日野さんは、何も聞かなかった。ゆうべのことも、今朝の静けさのことも。聞かないことが、この人のかばい方なのだと思う。


 午前の件は、いつもどおり入ってきた。噂は、画面の向こうには届かない。向こうの人たちは、私が昨日なにをしたと言われているのかを、知らない。ただ、困っている。それだけだ。


 午前のいちばん長い一件は、怒っている人だった。


『買ったばかりのものが動かない』


 文面は短く、切れていた。いつもの手順で狭めていくうちに、その人が本当に怒っているのは、動かないことではない、と分かった。昨日、来客の予定があって、間に合わなかった。そのことを、この人は書いていない。書いていないけれど、行の間に、それがある。


『間に合わなくてご不便でしたね』


 それだけ、先に書いた。


 返事は、すぐには来なかった。


 それから、来た。


『そうなんです』


 読める、と思う。画面の向こうのことなら、読める。行の間にあるものまで、読める。それが仕事だ。


 その日は、月に一度の、満足度会議の日だった。前から決まっていた日だ。よりによって、今日だった。


 午後いちばん、発注元の人が来る。うちの応対の質を、月に一度、数字で見にくる部署がある。お客様満足推進部。その日に来たのは、黒岩(くろいわ)さんだった。四十手前の、痩せた男の人で、色のあせた紺の上着を着ている。会議のあいだ、黒岩さんは一度も、人の顔を見ない。前の画面に出た数字だけを見て、話す。数字には顔がないから、見られるのだと思う。私たちの顔は、持ってしまっている。だから、見ないのだと思う。


 会議室のいちばん大きな画面に、フロアの数字が並んだ。応対の速さ、待たせた時間、いちど閉じた件がまた開く割合。名前は伏せられて、席の番号だけになっている。それでも、この部屋の全員が、どの番号が誰かを知っている。私の番号は、速さの列の、いちばん下にあった。それは、いつものことだ。


 うちの主任が、資料をめくる手を止めた。それから、日野さんが口を開いた。


「宇津木さんのことなんですけど。当面のあいだ、有人の応対からは外して、後ろの作業に回してあげたらどうかと思うんです。この子のために。いまは、そのほうが」


 語尾は、はっきりとは言わなかった。


 ゆうべの件が、という言葉は、出さなかった。出さないことが、やっぱり、この人のかばい方だった。この子のために。私のために。日野さんは、私を守ろうとしている。それは、分かった。


 守られることが、なぜだろう、後ろへ回されることと、同じ形をしていた。


 黒岩さんは、画面から目を離さずに言った。


「この番号は、いちど閉じた件が、また開くことが、ない。ゼロだ。ほかの番号は、そうじゃない。速い遅いの前に、二度手間にならないほうが、金はかからない。枠は、触るな。後ろに回して速さの列を空けても、また開く件が増えて、数字はむしろ悪くなる」


 それから、ひとつ、間を置いて、黒岩さんは付け足した。


「不審者を現場に置いておくのか、と本社は言うだろうな。言いたければ言えばいい。数字のほうが、長く残る」


 部屋が、静かになった。番号ではなく、私の名字が、そこにはなかったのに、みんなが私を見た。「不審者」という言葉だけが、伏せられていない場所に、置かれた。


 私は、うつむいたまま、言った。


「すみません」


 何に対しての「すみません」なのか、自分でも分からなかった。


 番号には、すみません、はない。番号は、ただ遅いだけだ。遅い番号に、謝る先はない。けれど、名字を持った人間には、謝る先ができてしまう。誰に、とは分からないまま。たぶん、この部屋の全員に、少しずつ。


 黒岩さんは、それには答えなかった。私が言ったことに、気づいてもいないようだった。もう次の番号の話に移っていた。私のことは、見ていなかった。もともと、見ていなかった。


 かばわれたのではない。黒岩さんがかばったのは、数字だ。数字は、私のことを、間違って読まない。そこには、昨日の噂も、警察も、入ってこない。数字は、私が黙っていることを、責めない。この部屋で、私を間違えなかったのは、私を見なかったあの人の、数字だけだった。


 会議が終わって、日野さんが、私のところへ来た。


「よかった。ほんとうに、よかった」


 それから、少しだけ声を落として、続けた。


「でも、無理はしないでね。ほんとうは、後ろの仕事のほうが、あなたには合ってたかもしれないのに」


 ――私のためを思って、言ってくれている。それは、分かった。


「はい」


 日野さんの「でも」の後ろにあるものを、私は、うまく読めなかった。画面の向こうの、会ったこともない人の行の間なら、あんなに読めるのに。すぐそばにいて、毎日飴をくれる人の一言が、読めなかった。日野さんは、近い。


 フロアに戻ると、何人かが、また少しだけ、手を止めた。今度は、今朝とは違う止まり方だった。あの発注元の、いちばん厳しい人が、噂の私を、残した。そのことを、どう受け取ればいいのか、みんな、決めかねている顔をしていた。私も、決めかねていた。ただ、間違った読みが、もう一つ増えた、とだけ思った。


 午後の返信を、私はいつもどおりに打った。速くはない。一件に、人より時間をかける。今日は、その遅さが、はじめて、後ろめたかった。速さの列のいちばん下が、頭のどこかに、貼りついていた。それでも、待つほうを選んだ。選んだ、というより、ほかのやり方を、私は知らない。その日の返信は、あわせて二十九件だった。いつもより、二件、少なかった。


 帰り道、いつものところで立ち止まった。スマホを取り出し、カメラアプリを起動する。何を撮るかは、その場に立つまで、決まらない。立つと、決まる。今日も、決まった。しゃがんで、一枚だけ撮って、またしまう。通りすがりの人が、私を見て、少し歩く速さを変えた。何をしているのだろう、という顔だった。今日、私はその顔をもう見ていた。会議室で、みんなが私に向けた顔だ。中身が見えない、というだけで、人は、少し速さを変える。悪いことをしているのではない。ただ、読めないだけだ。


 夜、部屋に帰る。


 今日の一枚を印刷した。それから貼る場所を探した。


 天井の近くは、もう埋まっている。床の上のほうも埋まっている。自分で印刷した紙が少しずつ重なって、壁をふさいでいる。下の紙は上の紙に隠れて、端しか見えない。いちばん下の端が何年前のものかは、もう分からない。


 窓のふちの下に、一枚ぶんだけ空いていた。ピンを押し込むと、壁の奥で、小さな音がした。


 ここでは、何も言わなくていい。壁は、何も聞かない。間違って読むこともしない。ただ、貼らせてくれる。


 貼り終えて、少しのあいだ壁を見ていた。それから、明かりを消した。


  ◇ ◇ ◇


 今日の返信、二十九件。


 今日の発話、「はい」二回。「すみません」一回。

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