手がかからないね。
朝のフロアは、話し声がしない。
四十人が席についていて、そのほとんどが、いま誰かと話している。けれど聞こえるのは、空調の低い音と、キーボードの、雨のような音だけだ。ここでは会話は指でする。画面の向こうにいる、顔も名前も知らない人と、文字で話す。声を出すのは、隣の席の人に何かを頼むときくらいで、それも一日に何度もあることではない。
私は席につき、鞄は足もとに置く。
私はヘッドセットをつけない。電話の窓口がもうないからだ。十年ほど前に、家電の相談は画面の中だけになった。番号は消えた。代わりに、製品に貼られたQRコードから案内の画面へ飛ぶ。それでも始業の前に一度、耳のあたりに手をやる。癖だ。何もない。手を下ろして画面を開く。
九時。最初の一件が入ってくる。
私はタイプが速い。人がしゃべるのと、たぶん同じくらいの速さで打てる。ふつう、それだけの速さで打てば、キーボードはうるさい。隣の島まで届くくらいの音がする。私のは、しない。強くたたかないからだ。爪は、いつも短く切っている。伸びていると、キーに当たって音が鳴るからだ。十年、声の代わりにこれで話してきて、いつのまにか、そうなった。強く打たなくても、速くは打てる。強く打つのは、聞いてほしい人がいるときだ。私には、聞いてほしい相手が、画面の中にしかいない。
だから、隣の席の子は、私がどれくらいの速さで打っているのか、たぶん知らない。音がしないからだ。画面を見なければ、私が仕事をしているのかどうかも、分からないと思う。それでいい、と私は思っている。見られていないところで、いちばんよくしゃべれる。
午前の三件目が、少し長くなった。
『変な音がする』
その人は書いていた。
型番は分かる。買って二年目の、いちばん売れている型の洗濯機だ。けれど『変な音』だけでは、どこも直せない。音は、書いた人の耳の中にしかない。それを、こちらへ持ってきてもらわないといけない。
私は、いつものように、ひとつずつ狭めていく。
『いつ鳴りますか。ずっとですか、それとも、あるときだけ。回りはじめですか、止まるときですか。水が入っているとき、脱水のとき。金属の音でしょうか、それとも、こすれるような音でしょうか』
その人は、ひとつずつ答えてくれた。答えながら、自分でも気づいていくのが、文字の向こうから伝わってくる。脱水のときだけだ、と。こすれる音だ、と。書いているうちに、その人の中で、ばらばらだったものが、ひとつの形になっていく。それなら、たぶん、こわれてはいない。中のものが片寄っているだけだ。厚いバスタオルが一枚、槽の端に張りついている。そういうときの音だ。
『中のものを真ん中に寄せて、もう一度回してみてください』
私はそう書いた。書いてから、少し迷って、一行足した。
『それでも鳴るようでしたら、また教えてください。今日でなくて、かまいません』
いらない一行かもしれない、と思う。手順としては、前の行で終わっている。それでも私は、その一行を消さなかった。困っている人は、直し方だけでなく、もう一度来ていい場所があることも、知りたいのではないか。そう思ったからだ。思っただけだ。確かめたわけではない。
しばらくして、返事が来た。
『鳴らなくなりました』
それから、もう一行、来た。
『こんなことで、すみません。話を聞いてもらって、たすかりました』
私は、その一行を、しばらく見ていた。
たすかったのは、洗濯機のことだろう。片寄ったタオルを、真ん中に寄せた。それだけのことだ。
それだけのことなのに、この人は『話を聞いてもらって』と書いた。
直してもらって、ではなく。
『どういたしまして』と打つ。
それはちがう気がして、消す。
『とんでもないです』も消す。
どれも、この人が書いてくれたものに、届いていない気がした。
結局、私は、一行だけ書いて、送った。
『またいつでも書いてください』
マニュアルには、ない一行だ。監督する人が見たら、よけいなことだと言うかもしれない。それでも、送った。
午前は、それだけではない。問い合わせは、次々に入ってくる。
次の人は、怒っていた。
『三回目だ』
『同じことを何度も説明させるな』
いきなり、そう書いてきた。
私は、前の二回のやりとりを、記録から探して、読んだ。たしかに、二回、来ている。二回とも、別の担当が、同じ手順を返していた。その手順は、私が書いた。同じ手順で直らなかったから、三回目に、この人はここにいる。
私は、前の二回のことは書かなかった。担当がどうとか、記録がどうとか、こちらの都合を書くと、この人はもっと遠くなる。私は、別のところから始めた。
『二回試して、だめだったんですね。では、そこは、もう飛ばしましょう』
しばらく、返事がなかった。
それから、短く、来た。
『はい』
怒りの消えた、はい、だった。
こういう、はい、を、私は一日に何度も、画面の中で受け取る。声では、ほとんど、受け取らない。
午前の返信は、十二件だった。
十時半ごろ、机の端で、小さな音がした。飴だった。みかんの味の、個包装のやつが、ひとつ、置いてある。日野さんだ。私が顔を上げるより先に、日野さんはもう自分の席に戻っていて、次の一件を開いている。
ふりむいて、言った。
「はい」
ありがとうございます、のつもりの、はい、だった。日野さんは画面を見たまま、片手だけ、ひらりと振った。それでいい、というふうに。
日野さんは、このフロアで、私に毎日話しかけてくれる、ただ一人の人だ。四十代の半ばで、髪は短い。私のミスを、上に上げる前に、そっと直しておいてくれることもある。この前も、若い子が私のことを何か言っているのを、あの子は丁寧なだけよ、と受けてくれた。丁寧なだけ。そのあとに、でも、と続いたのが、少しだけ、耳に残っている。でも、のあとは、聞こえなかった。人の多いフロアだから、聞こえないことは、いくらでもある。たぶん、たいしたことではない。
飴を、ひきだしに入れる。昼に食べるかもしれないし、食べないかもしれない。ひきだしの中には、同じ飴が、いくつか、たまっている。
昼の休みは、一時間ある。
みんなは外に出るか、休憩室でお弁当を広げる。私は、フロアの隅の、郵便の棚のところへ行く。会社あてに届いた紙が、部署ごとの棚に、仕分けされている。
その日、そこは、空だった。
ここには月に何通か、紙が入る。会社の宛名の下に、ただ『係の方へ』とだけ書かれた封筒。どれも、私が返事を書いていたものだった。会社に来た紙だから、会社の仕事だ。けれど、この仕事には担当がいない。やっているのは、私だけだ。ただ、返事の要る紙が、そこにあった。返事を書ける人が、たまたま、私だった。それだけのことだ。
その中に、毎月きちんと来る字が、一つあった。大きくて、まっすぐな字だ。去年のうちを最後に、その字が、来ない。
空白としては、十分な長さだ。それが何を意味するのかを、私は考えないようにしている。席に戻る。誰にも、何も、言わない。言うことでもない。
午後は、静かだった。
三時ごろ、日野さんが、私の席のところへ来た。来月のシフトの希望を、今日中に出すことになっている、という。紙を一枚、私の机に置いた。
「ここと、ここに丸を」
日野さんは、私の手元を指で示した。
「はい」
私は、言われたところに丸をつけて、返した。
日野さんは、その紙を受け取って、何か言いかけて、やめた。
それから、笑って、言った。
「宇津木さんは、ほんとに手がかからないね」
ほめてくれたのだと思う。手がかからない。世話が要らない。そういう意味だろう。
「はい」
もう一度、言った。
それしか、言えなかった。ありがとうございます、とも、そんなことないです、とも、言えたはずなのに、出てきたのは、はい、だけだった。日野さんは、自分の席へ戻っていった。
午後の返信は、十九件だった。あわせて、三十一件。
六時になる。
私は画面を閉じて、コートを着る。ヘッドセットをつけない私には、外すものもない。鞄を持って、島の端を通って、ドアのほうへ歩く。
「お先に失礼します」
誰にともなく言う。
近くの何人かが、小さくうなずく。この日、私が声に出したのは、それで、四つ目の言葉だった。
ドアに手をかけたとき、右の靴の紐が解けていた。
いつから解けていたのかは、分からない。このまま歩けば、もう一方の足で踏む。鞄を床に置いて、しゃがんだ。
紐を結んでいるあいだに、電話が鳴った。
島の端の、共用の電話だ。この部署に一本だけ残っている、外からの電話を受けるための線。ほとんど鳴らない。鳴っても、たいていは間違いか、業者からだ。床の近くで聞くその音は、いつもより遠かった。いちばん近い席の日野さんが、受話器を取った。
「はい、三葉コミュニケーションズです」
そう言うのが、聞こえた。
それから、日野さんの声が、止まった。
紐を二重に結んで、鞄を持って、立ち上がった。声の止まったほうを、見た。
日野さんが、こちらを見ていた。受話器を耳に当てたまま、口だけを動かして、私の名を呼んだ。
宇津木さん、と。
◇ ◇ ◇
今日の返信、三十一件。
今日の発話、「はい」三回。「お先に失礼します」一回。




