帝国の皇妃
私が帝国へ発ったのは、それから一月後のことだ。
国王陛下は最後まで引き留めた。というより、縋られた。「そなたが抜ければ執務が回らぬ」と仰るので、「先日わたくしを無能とお認めになったのは王家では」とお返しした。「王家への忠誠はどうした」とまで言われたので、「忠誠はございました。十年分、執務室の棚に置いてまいりました」とだけ答えた。
オズワルド殿下は見送りに来なかった。代わりに第二王子のセドリック殿下が、国境まで護衛を付けてくださった。
「レティシア姉様。……いえ、もう姉様とはお呼びできませんね」
「あら。お手紙でなら、いくらでも」
「兄上は、馬鹿です」
十三歳の殿下は、唇を噛んでうつむいた。この方には昔、執務のやり方をこっそり教えて差し上げたことがある。乾いた砂が水を吸うように、なんでも覚える子だった。
「姉様が毎晩どれだけ働いていたか、僕は知っています。僕だけは、知っています。……いつか僕がこの国を継ぐことがあれば、姉様が守ろうとしたものを、僕が守ります。だから」
顔を上げた瞳は、もう泣いていなかった。
「どうか、幸せになってください。この国のことは、忘れてくださっていいから」
私はこの日初めて、少しだけ泣いた。
馬車が国境を越えるとき、ハンナがぽつりと言った。
「お嬢様、笑っていらっしゃいます」
「あら。そう?」
「はい。ずっと、ずっとお美しい方でしたけど……今のお顔が、一番です」
窓の外には、見たことのない色の空が広がっていた。
◇
帝国での日々は、驚きの連続だった。
まず、帝城の官僚たちが私を「例の交渉資料の方!」と目を輝かせて出迎えた。五年前の敗北がよほど悔しかったらしく、私の資料は帝国の財務局で「教本」として回し読みされていたという。無能と呼ばれた国から一歩出たら、そこでは私の仕事に名前がついて、敬意と一緒に保管されていた。
次に、アルディスは本当に、心底、有能な人だった。私が執務を半分引き受けようとすると「あなたは半分でいい。残りは俺の仕事」と譲らない。それでいて私の意見は必ず最後まで聞き、良ければ採り、違うと思えば理由を添えて返してくる。私が仕事を「させられる」のではなく「する」ことを、この人は喜んでくれるのだ。
「レティ。今日は何もするな」
ある朝、突然そう宣言された。
「何も、とは」
「街に出る。菓子屋と本屋と、花市場。あなたはこの十年、季節の花を見にいく暇もなかったんだろう」
「……どうしてそれを」
「侍女殿から聴取した」
ハンナ。あとで蜂蜜のパンを焼いてもらおう、二人分。
お忍びの帝都は春で、花市場は香りの洪水だった。私が鉢植えの前で足を止めるたび、アルディスは黙ってそれを買おうとするので、途中から私は迂闊に立ち止まれなくなった。
「アルディス様。皇帝が花市場を買い占めてはいけませんわ」
「十年分だ。まだ足りない」
「なら、来年も連れてきてくださいませ。再来年も。……十年かけて、少しずつで結構ですから」
彼は虚を突かれた顔をして、それから、耳まで赤くなった。帝国の民の名誉のために言い添えると、この日「皇帝陛下が花より赤い」という噂が帝都を駆け巡ったのは、私のせいではない。
結婚式は、初夏だった。
帝都の大聖堂に、私は白いドレスで立った。王国からはセドリック殿下と、それからノーランド侯爵夫人が参列してくださった。夫人は私の支度部屋に押しかけると、開口一番こう言った。
「王都の社交界は今、大変ですのよ。『笑わぬ人形』と呼んでいた方々が、こぞって『私は昔からレティシア様の才を見抜いていた』と言い出して。わたくし、扇が壊れるほど笑いましたわ」
「まあ。皆さま、目がよろしいこと」
「ふふ。その意地の悪い言い方、ずっとお隠しになっていたでしょう。もったいない。あなた、本当はとてもお話が面白い方なのに」
誓いの言葉の場で、アルディスは定型文の最後に、一言だけ付け加えた。
「――生涯、あなたの仕事に敬意を。あなたの休息に祝福を。あなたの笑顔に、俺のすべてを」
参列席のハンナが決壊する音が、ベールの内側まで聞こえた。ちなみに私も、人前で泣いたのは人生でこれが二度目である。
皇妃としての初仕事は、その年の秋に来た。帝国東部を大雨が襲い、穀倉地帯の堤が三箇所で切れかけたのだ。
私は執務室に地図と過去五十年の治水記録を広げさせた。王国北部の水利権調停で、私は嫌というほど川と戦ってきた。どの堤を諦め、どの村を先に空にし、どこへ水を逃がすか。夜を徹して組んだ避難と放水の手順書は、そのまま東部総督府へ早馬で走った。
結果、堤は一箇所切れたが、死者は出なかった。一人も、だ。
「東部の民が、妃殿下を『水の聖女』と呼び始めています」
報告に来た官僚が、なぜか誇らしげに言った。
「大袈裟ですわ。書類を書いただけです」
「その書類が千の命を救ったのです。……妃殿下。帝国では、良い仕事をした者は称えられます。どうか、お慣れください」
良い仕事をした者は、称えられる。
当たり前のはずのその言葉が、胸の奥の、十年間ずっと冷えていた場所に、じんわりと沁みた。夜、寝室でそのことを話したら、アルディスは私の髪を撫でながら、静かに言った。
「あなたが今まで救ってきたものにも、全部名前をつけて返してやりたい。まあ、隣の国は返しそこねたわけだが」
「あら。よろしいのです。あの国には、ちゃんと気づいた人が残っていますから」
◇
さて、ここからは私が後から聞いた話である。
私の出国から二週間後、帝国との関税交渉が行われた。王国側の代表はオズワルド殿下。補佐はマリーナ様。お二人は「愛の力で乗り切る」と豪語していたそうだ。
結果、王国は羊毛関税の引き上げを丸呑みし、逆に穀物輸入の関税優遇を失った。帝国側の交渉官が、それはもう完璧な資料で理詰めに攻めたらしい。……その資料の監修者が誰だったかは、想像にお任せする。私はもう帝国の人間なので、帝国の民のために働いたまでだ。
北部の羊毛産業は悲鳴を上げ、領主たちが王宮に押し寄せた。殿下は対応の書類を前に三日三晩唸り、四日目に「レティシアを呼び戻せ」と叫んだという。
もう遅い。私はその頃、帝都で婚礼衣装の仮縫いをしていた。
マリーナ様はといえば、王太子妃教育が始まった途端に「聞いていた話と違う」と癇癪を起こした。夜会で微笑んでいればいい役目だと思っていたらしい。語学、歴史、礼法、財政学――教本の山を前に「こんなものレティシア様にやらせればいいじゃない」と言い放ち、教師陣を絶句させた。三日で教師が全員辞任し、七日目に彼女は王宮の宝物庫から装飾品を持ち出そうとして衛兵に捕まった。曰く「これくらい貰う権利がある」。
調べが進むと、面白いことが次々に出てきた。私の「悪行」の証言者は全員、マリーナ様から金銭を受け取っていた。階段の件は捏造、ドレスの件は自作自演。茶会で恥をかいたのは、彼女が招待状の返事も書けなかったからだ。極めつけに、彼女の背後には王国の機密を欲しがる第三国の影までちらついた。真実の愛、とは。
男爵家は取り潰し。マリーナ様は国外追放。
オズワルド殿下は廃嫡され、王位継承権はセドリック殿下へ移った。あの方が立つなら、王国の民は大丈夫だろう。私が安心して見捨て――もとい、見送れるというものだ。
国王陛下からは、公爵家経由で長い書状が届いた。要約すると「余の監督不行き届きであった。そなたの功績を正式に記録に残す。ついては顧問として月に一度――」。最後の一文で台無しである。父は「読むだけ読んでやってくれ」と言ったが、私の返事は一行で済んだ。『記録はセドリック殿下の御世の礎に。顧問の件は、帝国皇妃の兼職を陛下がお許しになるなら』。それきり、その話は二度と来なかった。
社交界の変わり身は、もっと露骨だったらしい。私を人形と嗤っていた方々が、今では「レティシア様のお戻りを願う会」なるものを開いているという。ノーランド侯爵夫人はその招待状を扇でひらりと受け流し、一言だけ返したそうだ。
「あの方を追い出した夜会に、あなた、拍手をなさっていませんでした?」
廃嫡が決まった夜、元殿下は側近にこう漏らしたという。
「レティシアは、笑わない人形だと思っていた。違った。あいつは笑う暇もなかったんだ。……俺の分まで、働いていたから」
気づくのが、十年遅い。




