婚約破棄の夜
王宮の大広間、建国記念の夜会。シャンデリアの光が磨き抜かれた床に降りそそぐその真ん中で、私の婚約者であるオズワルド王太子殿下は、高らかに宣言した。
「レティシア・エルデバルト! 貴様との婚約を破棄する!」
ああ、来た。
私は扇の内側で、そっと息を吐いた。安堵の息を。
「殿下。理由をお聞かせいただいても?」
「白々しい! 貴様がマリーナを虐げていたことは調べがついている! 階段から突き落とそうとした、ドレスを切り裂いた、茶会で恥をかかせた――挙げれば切りがない!」
殿下の腕の中では、男爵令嬢マリーナ・コレットが瞳を潤ませて震えている。守られる小鳥のポーズが完璧だった。三ヶ月前の観劇会で女優が演じていたヒロインと、指先の角度まで同じだ。よく研究していらっしゃる。
「そもそも貴様は王太子妃に相応しくない。愛想がない、可愛げがない、社交界でも笑わぬ人形と呼ばれる始末。その点マリーナは太陽のような女性だ。俺は真実の愛を見つけた」
真実の愛。
出た、と会場のどこかで小さく呟いた声を、私は聞き逃さなかった。多分あれはノーランド侯爵夫人だ。あとでお礼を言おう。
「承知いたしました」
私は膝を折り、完璧な淑女の礼をとった。
「婚約の破棄、謹んでお受けいたします」
大広間が、しんと静まり返った。
「……は?」
オズワルド殿下が間の抜けた声を出す。泣き崩れるなり縋るなりする私を想定して、この後の台詞を用意していたのだろう。台本が崩れて気の毒に。
「い、異論はないのか!」
「ございません。ただ一点だけ、確認をさせてくださいませ」
私は顔を上げ、殿下の目をまっすぐに見た。
「わたくしが王太子妃候補として担っていた執務――北部三領の水利権調停、帝国との関税交渉の下準備、王室財政の監査補助、それから殿下のお名前で出されていた政務書類の起草。これらはすべて、マリーナ様が引き継がれるという理解でよろしいですか」
「な……に?」
「わたくし、殿下の執務室の書類を五年間処理してまいりましたので。引き継ぎ資料は執務室の棚に整理してございます。全部で四十七冊です」
殿下の顔から、みるみる血の気が引いていくのがわかった。あら。ご存じなかったのかしら。ご自分が五年間、一枚も書類を読まずにサインだけしてきたことを。
「は、ハッタリだ! 貴様のような女に、政務など――」
「ハッタリかどうかは、明日の朝にはわかりますわ」
私は微笑んだ。五年ぶりに、心の底から。
「本日この時をもちまして、わたくしは王太子妃候補の任を解かれました。よって明日からの執務は一切いたしません。どうぞ真実の愛のお力で、王国をお支えくださいませ」
もう一度深く礼をして、私は踵を返した。ざわめく人垣が、海が割れるように道を開ける。
通り過ぎる私に、ノーランド侯爵夫人がすれ違いざま、扇の陰でささやいた。
「ご立派でしたわ、レティシア様。……あの坊やたち、ご自分が何を手放したのか、まだわかっていない顔をしていること」
「ええ。ですが、すぐにわかりますわ」
「あなたのそのお顔、初めて拝見しました。よく笑う方でしたのね」
夫人はころころと笑って、私の背をそっと押した。
その先、人垣の最前列に、見慣れぬ黒衣の青年が立っていた。
夜の色の髪に、冬の湖のような銀の瞳。彼は私と目が合うと、口の端だけでかすかに笑った。
――どこかで、会ったことがある気がした。
◇
エルデバルト公爵家の娘として、私は八歳で王太子の婚約者に選ばれた。理由は簡単で、私が「使える」からだ。
三歳で読み書きを覚え、七歳で領地の帳簿の誤りを指摘した。父は喜ぶより先に青ざめて、「その力は隠せ」と言った。出る杭は打たれる。賢すぎる女は疎まれる。だから殿下の前では控えめに、しかし執務は完璧に。それが公爵家と王家の、暗黙の取引だった。
オズワルド殿下は、書類が嫌いだった。正確には、文字の詰まった紙がすべて嫌いだった。剣術と乗馬と夜会は好きだった。だから私が代わりに読み、要点をまとめ、返答の草案を書き、殿下はサインをした。五年間、毎日。
夜会で私が壁際に立っていたのは、愛想がないからではない。昼間の執務で使い果たした気力を、立っているだけで精一杯になるまで削っていたからだ。茶会を断り続けたのは、可愛げがないからではない。断らなければ、翌朝までに仕上げるべき交渉資料が間に合わなかったからだ。
誰も知らない。知らせなかったのは私だ。それが役目だと思っていたから。
愛されようとは思わなかった。ただ、いつか王妃になったとき、この国の民が飢えないように。冬の北部で、子どもが凍えないように。それだけを考えて、私は人形と呼ばれながら書類の山を崩し続けた。
その山が、今夜、私の手を離れた。
「お嬢様……本当に、よろしかったのですか」
迎えの馬車の中で、侍女のハンナが目を潤ませる。私は窓の外を流れる王都の灯りを眺めた。
「いいのよ。それにね、ハンナ」
「はい」
「私、明日から朝寝坊ができるの」
ハンナは一瞬きょとんとして、それから泣き笑いの顔になった。
「でしたら明日は、お嬢様の一番お好きな蜂蜜のパンを、お昼に焼きますね。朝食ではなく、お昼に」
「まあ。贅沢だこと」
十年ぶりの、予定のない明日だった。
◇
翌朝、私は人生で初めて、昼近くまで眠った。
三日目、王宮から使者が来た。「引き継ぎ資料の場所がわからない」。棚の場所を書いた手紙を返した。
七日目、また使者が来た。「資料が難解すぎて読めない。口頭で説明に来てほしい」。丁重にお断りした。わたくしはもう王家の人間ではございませんので。
十日目、財務大臣が直々に公爵邸を訪ねてきた。応対した父は、玄関先で一時間頭を下げられ続けたという。
「レティシア。その、なんだ」
夕食の席で、父は珍しく歯切れが悪かった。
「王宮が、大変なことになっているらしい」
「でしょうね」
私はスープを一匙すくった。今日のスープは美味しい。時間をかけて味わえるからだ。
「帝国との関税交渉が二週間後に迫っている。準備していたのはお前だ。あの交渉が破談になれば、北部の羊毛産業は――」
「お父様」
私は匙を置いた。
「わたくしは婚約を破棄された身です。破棄なさったのは殿下。理由は『わたくしが無能で、可愛げがないから』。無能な女の作った資料など、燃やしてしまえばよろしいのに」
「レティシア……お前、怒って……」
「怒ってなどおりませんわ」
微笑んでみせる。父がすっと目を逸らした。
ええ、怒ってなどいない。八歳から十八歳まで、十年。友人との茶会も、好きな本を読む午後も、季節の花を見にいく小さな旅も、全部差し出して支えた相手に、大勢の前で「無能」と断じられただけ。
怒ってなどいない。ただ、もう二度と、あの方たちのために指一本動かさないと決めただけだ。
そしてその夜、公爵邸に一通の書状が届いた。
差出人は――グランディア帝国皇帝、アルディス・フォン・グランディア。
あの夜会で私を見ていた、黒衣の青年の名前だった。
◇
「十年前、国境の森で溺れかけた子どもを助けてくれた令嬢を、ずっと探していた」
後日、正式な使者として公爵邸を訪れた皇帝陛下は、開口一番そう言った。
「……あの、陛下。話が見えないのですが」
「八歳のあなたは、視察の途中で川に落ちた俺を引き上げて、こう言った。『泣いている暇があったら火を熾しなさい。凍死しますわよ』と」
……言った。言った気がする。確かにあの日、森で泥だらけの男の子を引き上げて、震えているのに意地を張って泣くのを我慢しているものだから、つい。
「あれが帝国の第三皇子だったと知ったのは、後になってからですわ……」
「俺はあの日から、あなたを探した。やっと名前を突き止めたら、隣国の王太子の婚約者になっていた。諦めようとした。だが、諦めきれずに国交を口実に何度もこの国に来た」
銀の瞳が、まっすぐに私を射抜く。
「五年前の関税交渉。帝国側が全面的に譲歩したと言われているが、あれは違う。譲歩させられたんだ。王国側の書類が完璧すぎて、うちの官僚が束になっても敵わなかった。……あの書類を書いたのは、あなただろう」
心臓が、跳ねた。
「どうして、それを」
「筆跡でも文体でもない。数字の組み立て方だ。相手を打ち負かすためじゃなく、双方の民が損をしないように組まれていた。ああいう仕事をする人間を、俺は他に知らない。少なくとも、あの若造にできるはずがない」
この人は、見ていた。
誰にも気づかれないように積み上げてきた、私の十年を。人形と呼ばれた女の、扇の下の素顔を。
目の奥が、じわりと熱くなった。泣くものか。泣いている暇があったら――ああ、だめだ。私が昔、この人に言った言葉だ。
「レティシア・エルデバルト公爵令嬢。単刀直入に申し上げる」
皇帝陛下はその場に膝をつき、私の手を取った。
「俺の妃として、帝国に来てほしい。あなたの頭脳が欲しい――というのは半分建前で、本音は十年こじらせた初恋をどうにかしたい」
「こ、皇帝陛下が正直すぎますわ……!」
「アルディスでいい。返事は急がない。あなたはずっと、誰かの都合で道を決められてきた人だ。だから今度こそ、あなたが自分で選んでくれ。……ただ、これだけは言わせてほしい」
彼は顔を上げ、少しだけ悔しそうに笑った。
「あなたを無能と呼ぶ国に、あなたを置いておきたくない」
――返事をしたのは、三日後だ。
悩んだのではない。ハンナと荷造りの算段をし、父を説得し、可愛い弟のような第二王子殿下にお別れの手紙を書くのに、三日かかっただけである。




