もう遅い
その元殿下と再会したのは、翌年の春。帝国で開かれた、羊毛関税の再交渉の場だった。
王国の窮状を見かねたセドリック殿下から親書が届き、帝国は再交渉に応じた。私が「交渉相手はセドリック殿下に限る」という条件を付けたにもかかわらず、当日、随員の末席にオズワルド元殿下が紛れ込んでいたのだ。廃嫡された身で、だ。
交渉自体は滞りなく終わった。セドリック殿下は十四歳とは思えぬ堂々たる交渉ぶりで、私が組んだ譲歩案の意図を正確に読み取り、双方の民が得をする着地点で握手をした。別れ際、殿下は帝国式の礼をとってから、こっそり王国式の、弟が姉にするお辞儀をして帰っていった。教えた身として、鼻が高い。ついでに少し、目頭も熱い。
問題はその後だ。退出する私の前に、オズワルド元殿下が飛び出して、廊下の真ん中で膝をついた。
「レティシア! 頼む、戻ってきてくれ!」
護衛が動くのを、私は手で制した。
「俺が間違っていた。全部、全部わかったんだ。お前がどれだけのものを背負っていたか、お前を失って初めて――マリーナは俺を騙していた、俺は被害者でもあるんだ。なあ、やり直せる。婚約破棄は取り消せる。父上も許すと言っている。俺はまだお前を――」
「元殿下」
私は静かに遮った。
「『取り消せる』と、仰いましたね。大広間で、王国中の貴族の前で、わたくしを罪人と断じたあの宣言を。証拠とやらを高々と読み上げた、あの夜を。……あなたにとって、あれはその程度の重さのものだったのですね」
「ち、違う、そういう意味では」
「いいえ、よくわかりましたわ。あなたは十年前も今も、ご自分の言葉の重さをご存じない。だからサインだけなさっていたのでしょう、中身も読まずに」
「一つだけ、お尋ねします。あなたはわたくしに、謝罪にいらしたのですか。それとも、わたくしの執務を取り戻しにいらしたのですか」
彼は口を開き、閉じ、また開いた。その数秒の沈黙が、答えのすべてだった。
「……昔のわたくしなら、それでも頷いたかもしれません。役に立つことでしか、自分の居場所を作れなかったから。ですが」
廊下の向こうから、靴音。振り向かなくてもわかる。この一年で、誰よりも聞き慣れた足音だ。
「今のわたくしには、書類を一枚も挟まずに、わたくしを選んでくれた人がいるのです」
アルディスは私の隣に立つと、元殿下を一瞥もせず、私にだけ言った。
「レティ。終わったか。菓子屋の新作が売り切れる」
「まあ、大変。急ぎませんと」
私は元殿下に向き直り、最後の礼をとった。完璧な、そして今度こそ本当に最後の、淑女の礼を。
「婚約破棄をしてくださって、ありがとうございました。あれはわたくしの人生で、あなたがくださった唯一の贈り物です。――ごきげんよう。もうお会いすることもないでしょう」
顔を上げず、俯いたままの元王太子を廊下に残して、私は歩き出した。夫の隣を、自分の足で。
後に聞いた話では、元殿下はその後、辺境の砦で一兵士として勤めているという。剣の腕だけは本物だったから、案外そちらが天職なのかもしれない。国外追放されたマリーナ様は、逃亡先の第三国で「王国の機密を知る元王太子妃候補」を自称して貴族に取り入ろうとし、何も知らないことが露見して放り出されたと聞く。その後の消息は、誰も知らない。
あの夜会の「真実の愛」の二人の末路としては、それで十分だろう。私はもう、思い出すこともほとんどない。人生は前にしか進まないし、私の前には、読みたい本と、見にいきたい花と、隣で不真面目な書付を回してくる夫がいるのだから。
◇
帝都の空は高く、青い。
「皇妃陛下、こちらが今期の予算案の……あっ、また陛下が執務を放り出して妃殿下のところへ――」
「放り出してない。妃と一緒にやる方が三倍速いだけだ」
執務室の長机に、アルディスと私は並んで座る。帝国の官僚たちは「妃殿下がいらしてから陛下の決裁が倍速です」と真顔で頷く。この国の人たちは、どうも全体的に正直すぎる。
「レティ。疲れたら言え。すぐ茶にする」
「まだ二枚しか読んでおりませんわ」
「じゃあ三枚読んだら茶にしよう。北部から蜂蜜が届いた。ハンナ殿が例のパンを焼くと言っていた」
「陛下、それが仰りたかっただけでしょう」
彼は悪びれもせず笑う。窓から春の風が入って、書類が一枚、ふわりと舞った。二人同時に手を伸ばして、指が触れる。
「なあ、レティ」
「なんでしょう」
「今、幸せか」
私は少し考えて、それから、扇で隠すことのない顔で笑った。
「ええ。朝寝坊はできなくなりましたけれど」
「明日は寝坊しよう。二人で」
「執務が溜まりますわよ」
「二人でやれば三倍速なんだろう?」
――かつて人形と呼ばれた娘は、隣国で誰よりもよく笑う皇妃になった。
王国は若き新王太子のもとで立ち直りつつあると聞く。セドリック殿下からの手紙は今も月に一度届く。書き出しはいつも「レティシア姉様へ」だ。
先月の手紙には、こうあった。
『例の四十七冊、ようやく全部読み終えました。三十二冊目の余白に、姉様の字で「ここまで読める者がいたら、その者に王国の未来を託してよい」と書いてあるのを見つけました。僕は途中で三度挫けかけたので、あと三年早く見つけていたら泣いていたと思います。今は、あの一文を毎朝思い出してから執務に向かっています。
兄上の起こしたことを、王家の人間として、改めてお詫びします。姉様はきっと「民に罪はない」と仰るでしょう。だから僕は、姉様が守ろうとした民を守ることで、償いに代えます。
追伸。北部の羊毛工房が、復興の御礼にと膝掛けを織りました。同封します。帝都の冬は王都より冷えると聞きましたので』
膝掛けは今、執務室の私の椅子に掛かっている。アルディスが時々羨ましそうに見るので、来月の返事には「陛下の分もお願いできますか」と書くつもりだ。
そして私の手元には、もう一通。夫からの、執務中に隣から回ってきた不真面目な書付が一枚。
『今夜、星を見にいかないか。十年分の二回目』
私は決裁印の隣に、返事を書いて回した。
『喜んで。――ただし、明日の朝は寝坊いたします』
◇
その夜、帝城の一番高い露台には、毛布と温めた葡萄酒と、焼きたての蜂蜜のパンが用意されていた。ハンナの仕業である。有能な侍女を持つと、夫婦の夜まで段取りが完璧だ。
「十年前のあの森でも、星が出ていた」
毛布にくるまった私の隣で、アルディスが空を見上げる。
「あなたに引き上げてもらって、火にあたって、迎えが来るまでの間。あなたは焚き火の番をしながら、星の名前を全部教えてくれた。……覚えているか」
「まあ。わたくし、そんな生意気なことを」
「生意気だった。八歳で星図を暗記している令嬢がいるか。だが俺はあのとき思ったんだ。この星を全部知っている子は、きっと誰かに『すごい』と言われたことがないんだろうな、と。あんまり当たり前みたいに話すから」
図星だった。二十年越しの図星である。この人にはかなわない。
「だから決めていた。いつか見つけたら、俺が全部言う。すごい、と。よくやった、と。……もう十年遅れたが、利子をつけて返すと決めている」
「あの、アルディス様。利子が本体を上回っておりますわ、最近」
「まだまだだ」
彼は真顔で言って、それから私の肩を抱き寄せた。冬の湖の色の瞳に、星が降るように映っている。
「レティシア。俺の妃が、この世で一番賢くて、一番働き者で、一番よく笑う。……これを毎日言える権利を、俺は隣の国の馬鹿から譲り受けた。あれだけは、あの男に感謝している」
「奇遇ですわね。わたくしも、一つだけ感謝しておりますの」
私は夫の肩に頭を預けて、目を閉じた。
婚約破棄されたあの夜、扇の下で安堵の息を吐いた私に、教えてあげたい。
――大丈夫。あなたはこれから、笑う暇しかない場所へ行くのよ。
(了)




