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好きな人が義理の姉になった日から、距離感がバグり続けて毎日心臓が持ちません。  作者: あ


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第八話 雨の日の傘の下で、気づいてしまった

 扉の前で、詩織は止まった。

 廊下は薄暗かった。外はまだ明るくなりきっておらず、曇っているせいで今日はいつもより光が少なかった。

 止まった理由は、自分でわかっていた。

 一週間前までは止まらなかった。ノックして、扉を開けて、布団に入って、おはようと言って、出ていく。それだけのことを、毎朝当たり前にやっていた。「姉弟だから」という理由が、ちゃんと心の中で機能していた。

 でも今は、機能していなかった。

 七日前に、住宅街の真ん中で足が止まった日から、何かが変わった。手が怖くなった、あの日から。

 扉の向こうに、悠馬がいる。

 布団の中で眠っている。

 そこに自分が入っていく。

 その事実が、今日は重かった。

 詩織は目を閉じた。深呼吸した。

 だからといって、やめるわけにもいかなかった。今日急にやめたら、悠馬が疑問に思う。「今日はどうして来なかったのか」と聞かれたら、答える言葉がない。「急に恥ずかしくなりました」とは言えない。なぜ恥ずかしくなったのかを説明する言葉が、自分の中にまだ整理されていなかった。

 諦めて、ノックした。

 三回、いつもの音で。

「悠馬さん」

 扉越しに呼んだ。

 返事がなかった。

 扉を開けた。

 部屋の中は薄暗かった。悠馬は布団の中にいた。顔だけが外に出ていて、目が閉じていた。起きているのか寝ているのか、表情では判断できなかった。

 布団に近づいた。

 膝をついた。

 布団を少し持ち上げた。

 入った。

 入った瞬間、心臓が駆け足になった。今日はいつもより速かった。二人分の体温が混ざる感覚が、今日はいつもより鮮明だった。悠馬の呼吸が、今日はいつもより近くに聞こえた。

 「おはよう」と言おうとして、声が一瞬だけ詰まった。

 詰まったのは一瞬で、すぐに出た。

「おはよう」

 悠馬が目を開けた。

 目が合った。

 今日の詩織は、その目から三秒で逸らせなかった。四秒かかった。逸らしてから、布団から出た。立ち上がって、スカートの裾を整えた。

「朝ごはん、できたら呼びます」

 言って、部屋を出た。

 扉を閉めてから、廊下で一度だけ、深く息を吸った。

 吸って、ゆっくり吐いた。

 それから台所へ歩いた。足が、少しだけ速かった。


 朝ごはんの最中、詩織は悠馬の方をあまり見なかった。

 見ないようにした、が正しい。

 視線を食器に落として、箸を動かして、味噌汁を飲んだ。悠馬が「今日もうまいです」と言った。詩織は「ありがとうございます」と答えた。それだけ言って、また食器を見た。

 悠馬が何か言おうとしている気配があった。感じた。でも何も言わなかった。

 食べ終わって、片づけをして、詩織は窓の外を見た。

 曇っていた。

 天気予報で確認した。午前中から雨が降る、と言っていた。

「傘、持ちましたか」

 詩織が悠馬に聞いた。

「……あ」

 悠馬の顔が少し固まった。持っていないらしかった。

「折りたたみならあります。使いますか」

「いや、でも詩織さんの」

「私のは長傘があるので、折りたたみは使いません」

 そう言って、玄関の収納から折りたたみ傘を出して悠馬に渡した。

 悠馬が受け取る瞬間、指が触れた。

 一瞬だけ。ほんの一瞬だけ。

 詩織は何も言わずに靴を履いた。


 家を出て五分も経たないうちに、雨が降り始めた。

 最初は細かい粒だったが、すぐに本降りになった。詩織は長傘を開いた。悠馬が折りたたみ傘を取り出そうとして、うまく開かなかった。仕組みがわからないのかもしれなかった。

「貸してください」

 詩織が言って、悠馬から受け取った。ロックを外して開いた。悠馬に返した。

 その間、二人は詩織の傘の下に入っていた。

 雨が本降りだったので、返してからもそのままでいた。

 というより、悠馬が傘を受け取ってから、少し考えて言った。

「詩織さんの傘の方が大きいので、こちらに入った方が」

 詩織は一瞬、答えに詰まった。

「……そうですね」

 答えながら、自分の声が少しだけ低かった気がした。

 悠馬が詩織の傘の下に入った。

 長傘だったが、二人で入ると肩が近くなった。雨が横から吹き込まないように傘を少し傾けると、さらに近くなった。

 詩織は傘の柄を持って、前を向いた。

 歩き出した。

 悠馬も横に並んで歩いた。

 二人とも、手は繋いでいなかった。両手が塞がっていた。傘を持っているから、手を繋げなかった。

 繋げなかった、ということに気づいたのは、歩き始めてすぐだった。

 繋げない、ということが、今日に限っては、妙に落ち着かなかった。

 代わりに肩が近かった。動くたびに触れそうになった。触れた。触れてから、微妙に距離が空いた。また歩くうちに近くなった。

 詩織は傘の柄を持つ手に、少しだけ力を込めた。

 前を見た。

 雨の中の住宅街が、いつもと違う色をしていた。


 学校に着いて、昇降口で傘を閉じた。

「ありがとうございました」

 悠馬が言った。

「いえ」

 詩織は答えた。

 それだけで別れた。

 廊下を歩きながら、詩織は今日の傘の下のことを、頭の中で整理しようとした。整理しようとして、できなかった。肩が近かった、という事実だけが残った。


 昼休みに、ひよりが来た。

 いつものように詩織の教室に来て、詩織の隣に椅子を引いて座った。

「詩織」

「うん」

「最近、なんか変じゃない?」

 詩織はひよりを見た。

「変って」

「なんか、元気ない、というか。考え事してる、というか」

 詩織は弁当箱の蓋を閉めた。少しの間、手元を見ていた。

「……ひより」

「うん」

「聞いていい?」

「なんでも」

 詩織はしばらく黙って、それから言った。

「毎日同じことをしていて、ある日突然それが怖くなるって、どういうことだと思う」

 ひよりは答えなかった。

 答えない代わりに、詩織をまっすぐ見た。

「怖い、じゃなくて」

 詩織が訂正した。

「怖いのとは違う。でも、今まで普通にできていたことが、急にできなくなる感じ。心臓が、違う動き方をし始める感じ」

「違う動き方」

「うん」

 ひよりはまだ何も言わなかった。

 詩織は視線を膝に落とした。

「毎日手を繋いで歩いてた。それが普通だと思ってた。でも、ある日から、それが怖い。怖いのとも違う。でも、足が止まる」

「足が止まる」

「止まった。先週、帰り道で」

 ひよりは少しの間、詩織を見ていた。

 それから、静かに言った。

「詩織」

「うん」

「その気持ちに、名前つけようとした?」

 詩織は黙った。

 しばらく黙って、それから首を縦に振るか横に振るか、どちらもできずに固まった。

「……怖かった」

 小さく言った。

「名前をつけるのが、怖かった」

 ひよりは何も言わなかった。

 詩織の言葉が終わってから、静かに手を伸ばして、詩織の手の甲を一度だけ軽く叩いた。慰めるような、励ますような、どちらとも取れる叩き方だった。

「詩織は、逃げなくていいからね」

 それだけ言って、ひよりは弁当箱を開いた。

 詩織はしばらくひよりを見ていて、それから視線を手に落とした。

 ひよりに叩かれた手の甲が、まだ少し温かかった。


 午後の授業は、頭に何も入らなかった。

 黒板を見ていた。先生の声が聞こえていた。でも文字が意味を持たなかった。声が言語として処理されなかった。

 名前をつけるのが怖かった。

 その言葉を、午後の授業中ずっと反芻していた。

 怖い、のは何故か。

 名前をつけたら、後戻りできなくなるからだ。

 後戻り、というのは、どこへの後戻りか。

 同居する前の、一ノ瀬詩織と佐伯悠馬が他人だった頃への、後戻り。

 チャイムが鳴った。

 詩織は開いたままのノートを見た。

 一行も書いていなかった。


 帰り道、雨は上がっていた。

 詩織は傘を持ったまま、悠馬の隣を歩いた。傘は必要なかったので、閉じたまま持っていた。

 悠馬の手が来た。

 いつものタイミングで、いつものように。

 詩織は前を向いたまま、手が絡むのを感じた。

 今日は、足が止まらなかった。

 止まらなかったのは、止まったらひよりとの会話の答えを出さなければならなくなる気がして、それが怖かったからだ。

 だから前を向いて、歩き続けた。

 悠馬も横で歩いていた。

 繋いだ手が温かかった。

 怖かった。

 でも、離したくなかった。

 その二つが同時に本当だった。


 夜、詩織は勉強机に向かっていた。

 参考書を開いていた。ペンを持っていた。でも、一文字も書いていなかった。

 窓の外は静かだった。雨上がりの夜の匂いが、窓の隙間から微かに入ってきた。

 壁の向こうが、悠馬の部屋だ。

 今何をしているのか知らない。勉強しているかもしれない。寝ているかもしれない。スマートフォンを見ているかもしれない。

 知らない。知る方法もない。知ろうとする理由もない。

 でも、考えてしまった。

 詩織はペンを持ったまま、参考書の白い余白を見た。

 今日の朝、布団の中で目が合ったとき。今日の傘の下で、肩が触れそうになったとき。今日の帰り道、手が繋がれたとき。

 全部、今日一日の出来事だった。

 全部、今までも繰り返してきたことだった。

 でも今日は、全部が違う重さを持っていた。

 詩織はペンを置いた。

 両手を机の上に置いて、その手を見た。

 右手が、今日も温かかった。

 名前をつけるのが怖い、とひよりに言った。

 でも今夜、詩織の頭の中には、もうその名前が来かけていた。

 来かけていたのに、詩織はまだ、それを正面から見ようとしなかった。

 見たら、本当になってしまう気がした。

 本当になってしまったら、どうすればいいか、わからなかった。

 詩織は参考書を閉じた。

 机の前に座ったまま、しばらく窓の外の暗闇を見ていた。

 壁の向こうが、静かだった。


 同じ時間、俺は布団の中にいた。

 天井を見ていた。

 今日の朝から晩まで、詩織がいつもと違った。

 詩織がいつもと違う、というのは、何かが変わったということで、何かが変わったのはわかるのに、何が変わったのかがわからなかった。

 朝の布団の中で、目が合ったとき。

 今日の詩織の目に、今まで見たことのない緊張があった。

 傘の下で、肩が触れそうになったとき。

 詩織が傘の柄を持つ手に力を込めていたのを、横から見えた。

 帰り道、手を繋いで歩いたとき。

 詩織の手が、今日は少し固かった。力んでいた。

 全部、今まで通りだった。でも、全部が今まで通りではなかった。

 俺にはその意味がわからなかった。

 でも、何かが詩織の中で動いている、ということだけは感じた。

 感じながら、何もできなかった。

 何もできないまま、天井を見ていた。

 雨上がりの夜の匂いが、窓の隙間から入ってきた。

 壁の向こうが、静かだった。

 お互いの静けさが、一枚の壁を挟んで、そこにあった。


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