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好きな人が義理の姉になった日から、距離感がバグり続けて毎日心臓が持ちません。  作者: あ


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第七話 ある日突然、手が、怖くなった

 朝、詩織が布団に入ってきたとき、俺は今日は目を開けないでいようと思った。

 思っていたのに、気配が近づいてきたら目が開いた。

 体が勝手に開けた。条件反射というのは、理性より先に動く。

「おはよう」

 詩織の声がした。今日も耳のそばで、低く、息を含んだ声だった。

「おはようございます」

 俺も答えた。薄暗い布団の中で、目が合った。三秒数えて、どちらかが先に逸らした。今日は俺の方が先だったかもしれない。正確にはわからない。

 詩織が布団から出ていく気配がした。

 俺は天井を見た。

 昨日も同じ天井を見た。一昨日も。同居してから毎朝、この天井を見ている。でも今朝の天井は、なんとなく昨日と少し違う色をしている気がした。気のせいだ、と思った。気のせいに決まっていた。天井の色は変わらない。変わったのは、たぶん俺の方だ。


 朝ごはんはいつも通りだった。

 詩織が作った。俺が「うまいです」と言った。詩織が小さく頷いた。片づけをした。着替えた。昇降口を出た。

 詩織の手が来た。

 来た瞬間に、今日もちゃんと心臓が動いた。

 最近思うのだが、この心臓は一生慣れないのではないかと思う。毎朝繰り返していて、慣れる気配が一切ない。それどころか、日によって跳ね方の種類が微妙に違う気がした。今日の跳ね方は、どちらかというと重かった。ずん、という感じの。

 詩織は前を向いて歩いていた。

 俺も前を向いた。

 繋いだ手が、今日はいつもと同じ温度だった。いつもと同じ、というのを確認してしまっていることに気づいて、俺は前を向いたまま少しだけ呆れた。


 昼休みになって屋上へ向かうと、詩織はすでに来ていた。

 フェンス際に座って、弁当箱を膝に置いて、空を見ていた。俺に気づいて、視線を下ろした。

「今日も晴れてますね」

 詩織が言った。

「そうですね」

 俺が答えた。

 それだけ言って、二人で弁当を食べ始めた。

 今日の弁当は鮭と小松菜の炒めものと卵焼きと、ご飯だった。鮭の焼き加減が今日は完璧だった。皮がぱりっとしていて、身がほろっと解けた。

「今日の鮭、うまいです」

「ありがとうございます。昨日より火加減に気をつけました」

「昨日もうまかったです」

「昨日は少し火が強すぎました」

 詩織は譲らなかった。自分の料理への評価基準が厳しいらしい、ということはこの一か月でわかってきた。褒めても「でも」と返ってくることが多い。でもその「でも」がだんだん、俺には好ましく感じられるようになってきていた。

 食べながら、ふと気づいた。

 今日は詩織の横顔を、二秒ルールを越えて見ていた。

 気づいてから、前を向いた。

 三秒は見ていたかもしれなかった。


 午後の授業が終わって、廊下を歩いていたとき、隣のクラスの女子に声をかけられた。

 名前は知らないが、顔は知っている。おそらく向こうも同じだろう。

「ねえ、佐伯くんって一ノ瀬さんと同居してるって本当?」

 廊下のど真ん中だった。周りに何人かいた。俺は立ち止まって、「まあ」と答えた。

「どういう関係なの?義理の姉弟ってこと?」

「そうです」

「へえ。一ノ瀬さんって話しかけにくいイメージあったけど、家ではどんな感じ?」

 どんな感じ、と聞かれても答えにくかった。朝ごはんを作ってくれて、布団に入ってきて、扉越しにお背中流しましょうかと言ってくる人です、と正直に言えるわけもなかった。

「普通に、一緒に暮らしてます」

「ふうん」

 その子は特に深追いせず、「そっか」と言って行ってしまった。

 俺はその場に少し立ち止まって、それから歩き出した。

 聞かれた内容は大したことではなかった。でも、なんとなく、「一ノ瀬さんって話しかけにくいイメージ」という言葉が引っかかった。

 引っかかった理由は、よくわからなかった。


 その様子を、廊下の少し離れた場所から見ていた人間がいた。

 ひよりだった。

 詩織の教室から出てきたところで、廊下の向こうに悠馬が女子に話しかけられているのが見えた。大した会話ではなさそうだった。悠馬も特に困った様子はなく、簡単に答えて歩き出した。

 それだけの光景だった。

 でも、ひよりには見えていた。

 その廊下の、もう少し手前に、詩織が立っていた。

 立ち止まって、悠馬と女子が話している方をちらりと見て、それから何でもない顔で歩き出した。

 何でもない顔だった。

 でもひよりには、その「何でもない顔」の作り方が、いつもと少し違って見えた。

 詩織はひよりに気づいて、近づいてきた。

「ひより」

「うん」

「何か用?」

「別に、たまたま廊下にいただけ」

 詩織はひよりを見た。ひよりは澄ました顔をした。

「……ひより」

「うん?」

「なんでもない」

 詩織はそれだけ言って歩き出した。

 ひよりはその背中を見送った。

 今日は、何も言わないでおこう、と思った。

 詩織の中で、何かが少しずつ動いている。仕組んだわけではなく、自然に動いているものがある。それを、今は触らない方がいい。

 ひよりは廊下の窓から外を見た。

 校庭の木が、風に揺れていた。


 帰り道、昇降口を出て、いつものタイミングで詩織の手が来た。

 俺は前を向いた。

 今日もいつもと同じだった。指が絡んで、温度が伝わって、俺の心臓がうるさくなった。それだけだ。いつもと同じだ。

 歩き出して、五分ほど経ったころ。

 詩織の歩調が、ほんの少し遅くなった。

 俺はそれに合わせてペースを落とした。

 また少し遅くなった。

 やがて、詩織が立ち止まった。

「どうしましたか」

 俺が聞いた。

 詩織は前を向いたまま、答えなかった。

 少し間があった。

「……なんでもないです」

 詩織が言った。

 俺はその横顔を見た。二秒ルールを忘れていた。三秒見た。四秒見た。

 詩織の耳が赤かった。

 歩き出したわけでもなく、止まったままでいた。手は、まだ繋いだままだった。

「一ノ瀬さん」

 俺が呼んだ。

 詩織がようやくこちらを向いた。目が合った。今日の詩織の目に、何か俺には読み取れない色があった。名前のない色だった。

「……歩きましょう」

 詩織が言って、また前を向いた。

 歩き出した。俺も歩き出した。手は繋いだままで、今日だけはいつもより、詩織の方から少しだけ力が入っていた気がした。

 気がした、だけかもしれない。

 でも、気がした。


 家に帰って、詩織は自分の部屋に直行した。

 荷物を置いて、制服のままベッドに座った。

 窓の外が夕方で、橙色の光が部屋に差し込んでいた。

 詩織はしばらく、膝の上に置いた自分の手を見ていた。

 右手だった。帰り道、ずっと悠馬と繋いでいた手だった。

 おかしかった。

 何がおかしいか、うまく言えなかった。ただ、おかしかった。今日の帰り道、住宅街の真ん中で急に足が止まった。止まろうと思ったわけではなかった。体が、勝手に止まった。

 心臓が、おかしかった。

 繋いだ手が、急に怖くなった。

 怖い、というのも正確な言葉ではない。怖いのとも違う。熱いような、痺れるような、それでいてもっとこのままでいたいような、でもこのままでいることが何か大変なことになるような、そういう感覚が足の先から頭の天辺まで一瞬で走って、それで足が止まった。

 悠馬に「どうしましたか」と聞かれた。

 答えられなかった。

 答えようとして、答える言葉がなかった。「急に手が怖くなりました」とは言えない。「心臓がおかしくなりました」とも言えない。

 だから「なんでもないです」と言った。

 なんでもないわけがなかった。

 詩織はベッドに横になった。天井を見た。

 毎日手を繋いで歩いていた。最初からずっとそうしてきた。でも今日まで、足が止まるようなことはなかった。ドキドキはした。毎回した。でもそれは、「恥ずかしい」という気持ちからくるもので、今日感じたものとは、何か種類が違った。

 種類が違う。

 どう違うのか。

 詩織はしばらく天井を見て、考えた。

 考えても、うまく言葉にならなかった。

 スマートフォンを手に取った。ひよりに電話しようとした。

 止まった。

 これをひよりに話したら、どうなるかがわかった。あの人は絶対に面白がる。面白がって、何か言う。何か言われたら、今自分が感じているこのよくわからない感覚に、ひよりの言葉で名前がついてしまう。

 それが、何故か嫌だった。

 自分でもよくわからない理由で、嫌だった。

 詩織はスマートフォンを置いた。

 ベッドの上で、体の向きを変えた。壁を向いた。壁の向こうが悠馬の部屋だ、ということを考えてから、また仰向けに戻った。

 窓の外が暗くなってきた。

 晩ごはんを作らなければならない。

 でも、もう少しだけ、と思った。

 もう少しだけ、天井を見ていよう。


 俺は自分の部屋で、机に向かって参考書を開いていた。

 開いていたが、中身が頭に入らなかった。

 さっきの帰り道のことを考えていた。

 詩織が立ち止まったとき、横顔に何か名前のつかない色があった。いつもの詩織ではなかった。いつもの詩織というのは、表情がある程度管理されていて、感情がそのまま顔に出ることは少ない。でも今日は、一瞬だけ、何かが剥き出しになった瞬間があった。

 その顔を、四秒も見てしまった。

 四秒。二秒ルールを倍も違反した。

 でも詩織は、何も言わなかった。

 「歩きましょう」と言って前を向いた。

 その声が、今日はいつもより少しだけ低かった気がした。

 俺は参考書に視線を戻して、同じ行を三回読んだ。

 三回読んでも頭に入らなかったので、四回目を読もうとして、やめた。

 廊下から、台所の方向に足音がした。詩織が晩ごはんの支度を始めたらしかった。

 包丁が板に当たる音と、何かを炒める音が、壁越しに聞こえた。

 俺は参考書を閉じた。

 手伝いに行こうか考えた。

 行こうとして、なんとなく、今日は行かない方がいい気がした。理由はうまく説明できなかった。ただ、今の詩織には少し一人の時間が必要そうだ、という気がした。

 根拠はなかった。

 でもそう感じた。

 俺は参考書を開き直して、もう一度同じ行を読んだ。

 今度は少しだけ、頭に入った。


 晩ごはんの時間、二人でテーブルに向かい合った。

 今日の夕食は豚汁と白ごはんと、もう一品何か小鉢があった。丁寧に作られていた。

「いただきます」

「いただきます」

 箸を取って、食べ始めた。

 豚汁が、よかった。出汁がしっかり効いていて、根菜の火の通り加減が完璧だった。

「豚汁、うまいです」

「ありがとうございます」

 詩織はそう言って、自分の豚汁を一口飲んだ。

 今日の詩織は、いつもより少しだけ静かだった。静かというのは言葉数が少ない、ということではなくて、いつもとはまた違う種類の静けさだった。何かを抱えているときの静けさ、に近い気がした。

 俺は何も聞かなかった。

 聞けなかったのではなく、聞かない方がいいと思った。

 だから、豚汁を飲んで、小鉢を食べて、ご飯を食べた。詩織も同じように食べた。

 食事を終えて、皿を片づけて、それぞれ自分の部屋に戻った。

 扉を閉める前に、廊下で詩織が振り向いた。

「おやすみなさい」

 言った。

「おやすみなさい」

 俺も言った。

 詩織は扉を閉めた。

 俺も扉を閉めた。

 壁の向こうが、静かだった。


 夜中に、スマートフォンが震えた。

 ひよりからだった。

「ゆーくん、今日詩織の様子どうだった?」

 俺はしばらく画面を見た。

 帰り道に立ち止まったこと。名前のわからない色が横顔にあったこと。晩ごはんのとき、少しだけ静かだったこと。

 全部、書こうとして、やめた。

 代わりに、こう打った。

「普通でした」

 送信した。

 しばらくしてひよりから「そっか」と返ってきた。今日は感嘆符がなかった。

 俺はスマートフォンを置いて、天井を見た。

 「普通でした」というのは、嘘だ。

 でも「普通じゃなかったです」と書いたとして、何が普通じゃなかったのかを俺自身がうまく説明できない。

 今日の詩織の横顔に何があったのか。

 今日の手の力加減が何を意味していたのか。

 帰り道に立ち止まったのは、なぜだったのか。

 全部わからなかった。

 でも、何かが少しずつ変わっている、ということだけは、わかった。

 何かが変わりつつある。

 俺はそのことを、布団の中で静かに考えた。

 考えながら、目を閉じた。

 今夜は、比較的早く眠れそうな気がした。

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