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好きな人が義理の姉になった日から、距離感がバグり続けて毎日心臓が持ちません。  作者: あ


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第六話 扉一枚の、途方もない距離

 朝、詩織が布団に入ってくるのが、いつの間にか当たり前になっていた。

 当たり前になった、というのは語弊があるかもしれない。慣れた、という意味ではない。毎朝の心臓の跳ね方は、初日からほとんど変わっていない。ただ、「今日も来る」という前提で眠るようになった、ということだ。

 今朝も、六時半のアラームが鳴る少し前に気配があった。

 廊下の足音。扉の前で止まる。小さなノック。扉が開く。近づいてくる足音。布団が持ち上がって、詩織が入ってくる。

 その一連の流れを、俺は目を閉じたまま待っていた。

 待っていた、というのは、自分でも相当まずいと思う。でも体がそういう習慣になってしまっていた。

「おはよう」

 耳元で声がした。

 今日はいつもより少しだけ近かった。息が、耳に触れるかどうかの距離だった。俺は目を開けて、詩織の顔を見た。布団の薄暗い中で、詩織の目と目が合った。

 三秒、見た。

 詩織が先に目を逸らして、布団から出ていった。

 俺はそれを見送って、天井を見た。

 心臓が、今朝もうるさかった。


 最近、周囲の目が変わってきた気がする。

 変わってきた、というのは、露骨に変わったわけではない。ただ、廊下を歩くときに視線を感じる頻度が上がってきた。登校するときに校門を入ったあたりで、誰かがこちらをちらりと見る。クラスメイトが俺の話をしているような気配がある。

 苗字が同じで、同じ家から出てきて、一緒に歩いて、昼は屋上で二人で食べている。そこまで揃えば、察する人間は察する。

 今日の昼休みも屋上だった。

 詩織が弁当を広げて、俺が弁当を受け取って、並んで座った。今日の卵焼きは少し焦げていた。でもうまかった。

「焦げてしまいました」

 詩織が言った。自分から言った。珍しかった。

「うまいです」

「焦げてます」

「でもうまいです」

 詩織はしばらく黙って、また弁当箱の方を見た。

「……ありがとうございます」

 小さく言った。

 俺はその声の感触を確認する間もなく、卵焼きを口に入れた。焦げた部分がかすかに苦くて、でも甘さがちゃんとあって、うまかった。

 風が吹いた。

 詩織の髪が揺れた。

 俺は空を見た。青かった。

 二秒だけ、横を見た。詩織が空を見ていた。その横顔に、今日は何か考えているような影があった。なんとなく聞きたかった。何を考えているのか。でも聞けなかった。その代わりに、前を向いて弁当の続きを食べた。


 昼休みが終わる少し前、詩織の教室の近くでひよりが詩織を捕まえた。

「詩織、最近ゆーくんと仲良さそうじゃん」

「……普通にやってます」

「朝も起こしてあげてるって聞いたよ」

 詩織は立ち止まって、ひよりを見た。

「誰から聞いたの」

「ゆーくん本人。昨日廊下で話した」

 詩織は何も言わなかった。何も言わない、というのは否定もしなかった、ということだ。

「詩織はさ、ゆーくんのこと、どう思ってるの」

「……義理の弟です」

「そっか」

 ひよりはにこりと笑った。その笑いに詩織は一瞬引っかかったが、追及する前にひよりが続けた。

「ね、詩織ってお風呂、夜派?」

「そうだけど」

「ゆーくんもそうらしいよ。かぶったりしない?」

「時間がずれてるから問題ない」

「ふうん」

 ひよりはまた「ふうん」と言って、廊下の天井を見た。何でもない顔をしていた。何でもない顔のひよりが一番不穏だ、ということを詩織は長年の経験から知っていたが、今日は聞かなかった。

「ね、詩織って知ってる?背中、自分で洗えない部分あるじゃん」

「何の話」

「姉弟って、そういうとき助け合うじゃん。背中流してあげるとか」

 詩織は廊下でひよりを見た。

「……それは流石に違うと思う」

「え、なんで。家族じゃん」

「ひより」

「うん?」

「それは家族でも、するかどうかは別の話だと思う」

「でもさ」

 ひよりは詩織の目をまっすぐ見た。

「詩織、ゆーくんのこと心配してる部分あるじゃん。今まで一人だったんでしょ、ゆーくんのお父さん。だからゆーくんも家のことは自分でやってきたはずで。そういう子って、人に頼むの下手じゃん。背中の届かないとこ、自分でなんとかしようとして、でも言えなくて、とか」

 詩織は少し黙った。

「……声をかけるだけなら」

 ひよりの口元が、かすかに動いた。

「そうそう、声だけでいいじゃん。扉越しに、必要だったら言ってって言うだけで」

「……扉越しに声をかけるだけなら」

「それでいいと思う」

 詩織はまた少し黙って、頷いた。

 ひよりはその頷きを見届けてから、前を向いて「じゃあ授業行こ」と言った。

 その口元が、今度は完全に笑いをこらえていた。


 夜、二十時を過ぎたころ。

 俺は宿題を片づけてから、洗面道具を持って廊下に出た。今日は少し遅くなった。風呂場の前まで来て、電気が消えているのを確認して、扉を開けた。

 いつも通りだった。

 脱衣所で服を脱いで、洗い場に入って、シャワーを出した。一日の汚れを流しながら、今日あったことを頭の中で整理した。授業のこと。屋上の弁当のこと。詩織が焦げた卵焼きに自分でツッコんで、でもありがとうございますって言ったこと。

 湯船に浸かった。

 肩まで沈んで、目を閉じた。

 静かだった。

 湯の音と、換気扇の音と、たまに外から車の音が遠くに聞こえた。それだけだった。

 一日の終わりにここに来ると、ようやく一人になれた気がする。学校では誰かの視線があって、家では詩織がいて、それ自体は嫌ではないのだが、こうして完全に一人になると、逆にほっとする自分がいた。

 目を閉じていた。

 だから、扉の外に足音が来たことに気づかなかった。

 気づいたのは、ノックの音が聞こえたときだった。

 湯船の中で、体が一瞬固まった。

「……悠馬さん」

 扉の向こうから、詩織の声がした。

 心臓が、一拍止まった。

 俺は湯船の中で、背筋を伸ばした。声を出そうとして、喉が固まった。軽く咳払いをしてから答えた。

「は、はい」

「あの」

 少しの間があった。

 扉の向こうで、詩織が何かを考えているような沈黙があった。

「……お背中、流しましょうか」

 俺の頭の中が、一瞬で真っ白になった。

 真っ白、というのは比喩ではなく、本当に何も考えられなくなった。思考が全部止まった。湯の温度がわからなくなった。手足がどこにあるかわからなくなった。

 扉の向こうに、詩織がいる。

 その事実だけが、真っ白の中に浮かんでいた。

「だ、大丈夫です」

 声が出た。自分でも驚くくらい、なんとか普通の声が出た。

「……そうですか」

「大丈夫です。ありがとうございます」

「そうですか」

 もう一度、詩織が言った。

 足音がした。遠ざかっていく。

 俺はそれを湯船の中で聞いていた。

 遠ざかる足音が聞こえなくなってから、息を吐いた。

 いつ息を止めていたのか、自分でもわからなかった。

 湯の温度が戻ってきた。換気扇の音が戻ってきた。

 俺は湯船に沈んで、顎まで湯に浸かった。

 熱かった。

 湯船のせいだけではないのが、自分でよくわかった。


 脱衣所の前の廊下で、詩織はその場に座り込んだ。

 壁に背を預けて、両膝を胸の前に抱えた。両手で顔を覆った。

 声に出さずに、心の中で言った。

 私、何やってるんだろう。

 声をかけるだけのつもりだった。扉越しに「必要だったら言ってください」と伝えるだけのつもりだった。それで終わりのつもりだった。

 でも扉の前に立って、息を吸って、「悠馬さん」と呼んだあとに出てきた言葉が、「お背中、流しましょうか」だった。

 自分で言っておいて、言った直後に頭が沸騰した。

 「大丈夫です」と返ってきた声が、少し固かった。驚いていたのがわかった。そうだ。当然だ。誰だって驚く。

 詩織は顔を覆ったまま、指の隙間から廊下の床を見た。

 ひよりのせいにしようとした。でもひよりは「声だけかけてあげなよ」と言っただけで、「お背中流しましょうか」とは一言も言っていない。

 自分で言った。

 自分の言葉で言った。

 詩織は膝に顔を埋めた。暗くなった視界の中で、扉越しに聞こえた悠馬の声を思い返した。「だ、大丈夫です」の、最初の一音が少しだけ重なった。

 あの声が、なんとなく頭に残った。

 残ってほしくなかった。

 残ってしまった。

 廊下の床が冷たかった。でも顔が熱かったので、冷たさがちょうどよかった。詩織はしばらく、その場から動けなかった。


 風呂から上がった俺は、脱衣所で鏡を見た。

 顔が赤かった。耳が赤かった。首の後ろまで赤かった。

 湯冷ましに少し時間がかかりそうだった。

 タオルで髪を拭きながら、廊下に出た。

 詩織の部屋の前を通るとき、中に明かりがついているのが扉の隙間から見えた。

 俺は少しだけ足が止まった。

 止まってから、また歩いた。

 自分の部屋に入って、扉を閉めた。

 机の前に座って、スマートフォンを手に取った。ひよりからメッセージが来ていた。

「ゆーくん、今夜詩織に何か言われた?」

 俺は画面を見た。

 見て、少し考えて、返信を打った。

「特には何も」

 送信した。

 三秒で既読がついて、ひよりから「そっか!!」と返ってきた。感嘆符が二つついていた。

 俺はスマートフォンを机に置いた。

 「特には何も」というのは、正確には嘘だ。でも正確に伝える言葉が見つからなかった。「お背中流しましょうかと言われました」と書いたとして、その後どうなるかを想像したら、書けなかった。

 布団に横になった。

 天井を見た。

 「お背中、流しましょうか」という声を、もう一度頭の中で再生した。

 扉越しの声だったから、少しだけくぐもっていた。でも詩織の声だとわかった。当たり前だが、わかった。

 再生して、また心臓が動いた。

 もう風呂は上がっているのに、まだ体が冷めていなかった。

 俺はそのまま目を閉じた。

 眠れる気がしなかった。

 でも眠ろうとした。

 眠れなかった。


 翌朝。

 いつも通りに詩織が布団に入ってきて、いつも通りに「おはよう」と言った。

 俺はいつも通りに目を開けて、詩織の顔を見た。

 詩織の顔が、今日は少しだけ違った。いつもより、わずかに目が逸らされるのが早かった。

 俺も今日は、いつもより目を逸らすのが早かった。

 昨夜のことには、どちらも触れなかった。

 触れる言葉が、どこにもなかった。

 布団の温度だけが、二人分あった。

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