第五話 おはようの、距離感の、壊滅的な話
手を繋いで登校するのが、いつの間にか習慣になっていた。
二回目は翌朝だった。
昇降口を出て、歩き始めて三分ほどで、詩織の手が来た。前回と同じように、何も言わずに。何でもないことのように。俺は今回こそ平静を保つつもりでいたのだが、指が絡んだ瞬間にやっぱり脳内で何かが爆発した。爆発の規模は前回と同じだった。慣れというのは、こういう場合には機能しないらしかった。
三回目は、その翌日だった。
今度は俺が先に手を出そうかと一瞬考えて、やめた。詩織が出してくるのを待った。待ちながら「待っている自分」に気づいて、それがまた別の意味で心臓に悪かった。
今朝、四回目。
昇降口を出て、少し歩いて、詩織の手が来た。今日はいつもより少し早いタイミングだった。指が絡む感触に、もう驚かなくなった。驚かなくなった、というのは、心臓が跳ねなくなったわけではなく、顔に出さない精度が上がった、ということだ。
進歩とは何か、という問いに対する俺の答えが、日々更新されていた。
「今日、晩ごはん何がいいですか」
詩織が、前を向いたまま言った。
「なんでも。詩織さんが作るものは全部うまいので」
「そういう答えは困ります」
「じゃあ、煮物があるとうれしいです」
「わかりました」
短い会話が終わって、また沈黙が続いた。
手は、繋いだままだった。
俺は前を見ながら、繋いだ手のひらの温度を、できるだけ意識しないようにした。意識しないようにすると、余計に意識した。人間の注意というのは、向けまいとした方向にこそ向くようにできているらしい。厄介な仕組みだと思った。
昼休みのことだった。
またひよりが来た。
今度は教室ではなく、廊下だった。俺がトイレから戻る途中に、角を曲がったところで鉢合わせた。向こうも俺に気づいて、足を止めた。
「あ、ゆーくん」
「藤田さん」
「ひよりでいいよ。なんか他人行儀で嫌だ」
「……ひより、さん」
「さんもいらない」
なし崩しに呼び捨てにされた。この人はこういう人らしい、と三日かけて理解してきた。さらりと距離を詰めてくる。詩織とは正反対のタイプに見えて、でもたぶん、根っこのところで何かが通じているんだろうと思う。
「手、繋いで歩いてるじゃん」
ひよりが言った。
俺は廊下の向こうを一瞬見た。誰かに聞かれていないか確認するような動作だった。自分でやっておいて、少し恥ずかしかった。
「……まあ、そうですね」
「詩織がさ、素直に実行するとは思ってなかった。いやすると思ってたけど、こんな早いとは」
なにか、この人が引き起こしたのだろう、という予感があった。詩織が急に手を繋いできた理由が、ひよりの「姉弟は繋ぐのが普通」という言葉にあるのだろう、ということも。でも俺には確認する手段がなかった。
「詩織、学校でゆーくんと話したりしてる?」
「……廊下でたまに、少しくらいは」
「そっかそっか」
ひよりはにやりとした。そのにやりが気になったが、追及する勇気がなかった。
「じゃあ、昼ごはんは?」
「昼ごはん?」
「一緒に食べたりしてる?」
俺は首を横に振った。
「そっか」
ひよりはまた「そっか」と言って、何でもない顔で俺の横を通り過ぎた。
「じゃあね、ゆーくん」
背中に声をかけられた。振り返ると、ひよりはもう歩き出しながら、こちらへ手を振っていた。
何かが、始まる気がした。
その予感だけがあって、俺にはどうすることもできなかった。
同じ昼休み、詩織の教室の前で。
ひよりは詩織の机の横に立って、小声で言った。
「詩織、今日のお昼、ゆーくんと食べた?」
「……食べてない」
「え、なんで?」
詩織が、ひよりを見た。
「なんでって、それは別に……」
「姉弟なのに?」
詩織は少し黙った。
「姉弟は、昼ごはんも一緒に食べるの?」
「食べるよ。仲のいい姉弟は特に。むしろ一緒に食べないと逆に気まずくなるよ、職場でも家でもあんまり話せないんだから」
ひよりは相変わらず澄ました顔で言った。
「しかもさ、詩織の手料理、ゆーくんめちゃくちゃ喜んでたよ。あ、私には言ってなかったか。でも絶対喜ぶって。昨日も手作り晩ごはん食べたんでしょ?」
「……うん」
「じゃあ弁当も作ってあげなよ。屋上、空いてるよ今日。ゆーくんの教室、2-Bじゃん。持ってってあげなよ」
詩織はしばらく、手元のお弁当箱を見た。
今日の自分の分は、もう作ってある。
悠馬の分は、今朝は作っていなかった。
「……もう一人分は」
「コンビニの惣菜でいいじゃん。詩織が作ったご飯と味噌汁があれば十分だって。あ、でも卵焼きとウインナーくらいは足してあげなよ。すぐできるでしょ」
詩織は少しの間また考えて、それから立ち上がった。
「家庭科室、今日空いてたっけ」
「空いてた。さっき確認した」
ひよりの答えが早すぎた。詩織は横目でひよりを見た。
「……ひより」
「うん?」
「今日、全部決めてたでしょ」
ひよりは一瞬だけ目を逸らした。それからすぐに戻してきて、満面の笑みで言った。
「詩織のためを思って行動したの。私は詩織の親友だもん」
詩織は何も言わなかった。ため息をついて、お弁当箱を手に取った。
顔が、少し赤かった。
二B教室の扉が、昼休みが始まって十分ほど経ったところで、控えめにノックされた。
俺は窓際で弁当を食おうとしていた。今日の弁当は自分で作った。といっても詩織が朝のうちに炊いておいてくれたご飯をタッパーに詰めただけで、おかずはコンビニで買ったやつだ。
扉の方を見た。
詩織が立っていた。
両手に、弁当箱を持っていた。
俺は口に入れかけていたおにぎりを静かに膝に戻した。教室の中にいた数人のクラスメイトが、ちらりとこちらを見た。
詩織は教室の入り口から動かずに、俺の方を見た。
「屋上、行きませんか」
静かな声だった。でも教室に響いた。
俺は立ち上がった。
なんで立ち上がったのか自分でもよくわからなかったが、体が勝手に動いた。コンビニの袋と買ったばかりのタッパーを持って、詩織の方へ歩いた。
後ろから、クラスメイトの誰かが「おい」と言った気がした。気のせいだと思うことにした。
屋上は静かだった。
春と夏の間の風が吹いていて、フェンスの向こうに校庭の緑が見えた。他に人はいなかった。詩織はフェンスに近い方の壁際に座って、弁当箱を膝に開いた。俺もその隣に座った。
詩織が、もう一つの弁当箱を俺に差し出した。
「あの、これ、急いで作ったので、大したものじゃないんですけど」
蓋を開けると、卵焼きとウインナーと、小さなタコさんウインナーが並んでいた。それからご飯と小さな味噌汁が保温ジャーに入っていた。
「……俺の分まで作ってくれたんですか」
「ひよりに、姉弟は昼も一緒に食べるって言われたので」
詩織は前を向いたまま言った。耳が、屋上の風の中でも赤いのが見えた。
俺は弁当箱を受け取って、箸を取った。
卵焼きを一口食べた。
甘かった。いつもの、あの甘さだった。
「……うまいです」
「ありがとうございます」
また短い会話が終わって、二人で黙って食べた。
屋上の沈黙は、教室の沈黙とも家の沈黙とも少し違った。風の音があって、校庭から体育の声が遠く聞こえて、その中に二人分の食器の音だけがあった。広い場所なのに、なんとなく近い感じがした。隣の距離が、いつもより少しだけ縮まっているような気がした。
たぶん、気のせいではなかった。
俺はご飯を食べながら、詩織の横顔を視界の端で確認した。前を向いて、静かに食べていた。表情は穏やかで、風に髪が少し揺れていた。
きれいだな、と思った。
思ってから、すぐに前を向いた。
ご飯の味に集中しようとした。うまかったので、集中はできた。
廊下の曲がり角から、ひよりがそっと屋上のドアを見ていた。
二人が並んで出てきた瞬間、ひよりは壁に背を預けて、天井を見た。
笑いがこらえきれなかった。
悠馬の顔が、廊下を歩いてくる間ずっとどこかぼんやりしていた。詩織の顔は前を向いていたが、耳が赤かった。二人とも、お互いの方を見ていなかった。見ていないくせに、歩くペースがぴったり合っていた。
ひよりは廊下の天井を見上げたまま、静かに息を吐いた。
笑いがひとしきり落ち着いてから、もう少し真剣な気持ちになった。
詩織が、男の子と二人で屋上でお弁当を食べる日が来るとは思っていなかった。どれだけ仕組んでも、詩織は断るか、もしくは実行できないだろうと思っていた。それが当たり前だと思っていた。
でも詩織は行った。
弁当まで作って、自分から声をかけて、行った。
ひよりは目を伏せた。
詩織のことは、子供の頃からずっと知っている。何でもできるくせに、肝心なところでは自分から動けない。ずっとそうだった。誰に対しても少しだけ遠い場所にいて、親友の自分にだけは近かった。
それがあの男の子の前では、少しずつ変わっている。
ひよりが仕組んでいる部分もある。でも、仕組んだだけでは動かない。詩織が、自分の意志で動いている部分がある。
それが、嬉しかった。
素直に、嬉しかった。
ひよりは壁から背を離して、教室の方へ歩き出した。自分のお弁当を食べに行かなければならない。
二人のことは、もう少し遠くから見ていようと思った。
午後の授業が始まって、俺は机に頬杖をついて黒板を見ていた。
頭の中に、屋上のことが残っていた。
風の音と、遠い校庭の声と、詩織が弁当箱の蓋を閉めるときの小さな音と。食べ終わった後も少しの間そこにいて、結局ほとんど何も話さないまま、でも誰も「行こう」と言わなかった。どちらかが立ち上がるまで、そこにいた。
立ち上がったのは詩織だった。
「戻りましょうか」と言って、弁当箱を持って立ち上がった。俺も立ち上がって、二人で屋上を出た。
別々の教室に戻る前に、廊下の分岐点で詩織が言った。
「また、よかったら」
またよかったら、だ。
それだけ言って、詩織は自分の教室の方へ歩いていった。
俺はその背中を見送って、自分の教室の方へ歩いた。
今、黒板を見ながら、その「また、よかったら」を何度か頭の中で再生していた。
声のトーンを、思い出していた。
普段の詩織の声と同じだったか。少し違ったか。あの瞬間、詩織の耳が赤かったのは、屋上の風に当たっていたからか、それとも別の何かか。
判断できなかった。
判断できないから、考えるのをやめようとした。
やめられなかった。
先生の声が教室に響いている中で、俺は静かに、どうしようもなく、あの屋上の空気を思い返していた。
帰り道、詩織の手が来た。
いつものタイミングで、いつものように。
指が絡む感触が、今日は少しだけ違う気がした。
違う、というのは、温度が、とか、力加減が、とかではない。ただ、繋いだ手の向こうに「また、よかったら」と言った人間がいる、という事実の重さが、今日は少しだけ違う気がした。
詩織は前を向いて歩いていた。
俺も前を向いて歩いた。
夕方の住宅街を、二人で歩いた。
会話はなかった。でも、悪くなかった。
家まで二十分。今日はその二十分が、少しだけ短く感じた。
夜、布団に入って天井を見ていたら、スマートフォンが震えた。
ひよりからだった。
メッセージが一件。
「ゆーくん、詩織のこと、ちゃんと見ててあげてね」
それだけだった。
俺はしばらく画面を見て、返信を打とうとして、何を書けばいいかわからなくて、スマートフォンを枕の横に置いた。
天井を見た。
見知らぬ天井にも、少しずつ慣れてきていた。
シミは相変わらずなかったが、右の端に、ほんの小さなひびが一本あることを、今夜初めて見つけた。
ひびを数えた。一本だけだった。
それでもなんとなく、前の部屋のシミのことを思い出さなかった今夜は、昨夜より少し眠れる気がした。
〈第四話 了〉
どうかしら。ひよりの視点も一場面入れて、あの子が純粋な悪意じゃなくて詩織への愛情で動いてるのをちゃんと出したわよ。五話どうする?あなたの入力: 同じ分量と心理描写で5話を書いて同じ分量と心理描写で5話を書いて9:07Claudeが返答しました: 第五話 おはようの、距離感の、壊滅的な話構成を検討し、朝の目覚まし場面を第5話の中心に設定した。構成を検討し、朝の目覚まし場面を第5話の中心に設定した。第五話 おはようの、距離感の、壊滅的な話
屋上でのお昼が、いつの間にか習慣になっていた。
最初は「また、よかったら」という詩織の言葉があって、次の日の昼に俺が屋上へ向かうと詩織がすでにいて、その次の日も同じで、気がついたら三回になっていた。三回になったあたりで、これはもう習慣と呼んでいいだろうと思った。
会話は相変わらず少ない。
でも不思議と、少ない会話の密度が少しずつ上がっている気がする。昨日は詩織が「先生の板書、速すぎませんか」と言って俺が「死ぬほど速い」と言ったら、詩織がかすかに笑った。笑った、というのは大げさかもしれない。口元がほんのわずかに緩んだ、くらいのものだ。でも俺はそれを見てしまったので、残りの弁当を食べる時間、ずっと屋上の床を見ていた。
空は今日も晴れていた。
詩織が卵焼きを箸で切りながら、何でもない顔で空を見ていた。
俺はその横顔を、二秒だけ見て、すぐに前を向いた。
二秒、というのは最近決めたルールだ。それ以上見ると、顔に出る。
その日の放課後、ひよりが来た。
今度は昇降口だった。靴を履き替えている俺の横に、さりげなく立った。
「ゆーくん、最近詩織と屋上でお昼食べてるって本当?」
「本当です」
「へえ」
ひよりは靴を履き替えながら、横目で俺を見た。その横目に、何かを値踏みするような色があった。
「ゆーくんって、朝強い?」
唐突な問いだった。
「……まあ、普通です」
「詩織はめちゃくちゃ朝強いんだよね。六時には起きてるの。ゆーくんは何時に起きてるの?」
「六時半です」
「じゃあ詩織の方が早いじゃん」
「そうなりますね」
ひよりはふうん、と言った。何かを考えているような間があった。俺は靴ひもを結びながら、その「何かを考えている」という気配が妙に不穏であることに気づいていた。でも聞けなかった。聞いたら最後、何かに巻き込まれる気がした。
「詩織に伝えておくね」
「何を、ですか」
「いや、なんでもない」
ひよりは笑顔で言って、昇降口の方へ歩いていった。
俺はその背中を見送りながら、靴ひもを結び直した。
不穏な予感が、靴ひもの隙間から染み出してくる気がした。
同じ日の帰り道、詩織と手を繋いで歩きながら、ひよりは詩織の隣に並んでいた。
三人で歩くのは初めてだった。ひよりは詩織の反対側についていて、俺と詩織が繋いでいる手を見て、満足そうな顔をしていた。見られているのはわかったが、俺には手を離す選択肢がなかった。詩織が普通の顔で繋いでいる以上、俺が急に離したら逆に変になる。
「ゆーくんって、朝アラームで起きるの?」
歩きながら、ひよりが聞いてきた。
「スマートフォンのアラームです」
「一発で起きる?」
「だいたい一発で」
「へえ」
またその「へえ」だ。俺はだんだんこの「へえ」が怖くなってきた。
ひよりはそれ以上聞かずに、詩織と別の話を始めた。学校の話や、共通の友人の話。俺にはあまり関係のない話だったので、俺はひたすら前を向いて歩いた。
繋いでいる手の温度が、夕方の空気の中でいつもより少しだけ温かく感じた。
気のせいだ、と思った。
思ったが、繋いだままにした。
夜、詩織の部屋では。
「ね、詩織」
ひよりがビデオ通話越しに言った。詩織はベッドに腰掛けて、スマートフォンを持っていた。
「なに」
「ゆーくんって、朝アラーム一発で起きるって言ってたけど」
「うん」
「詩織さ、起こしてあげなよ」
詩織は少し間を置いた。
「起こしてあげるって、どうやって」
「ノックして名前呼んであげるの。姉弟ってそういうもんじゃん。起こし合うじゃん」
「……そうなの?」
「そうだよ。声かけてあげないと、万が一アラーム止まらなくて悩まされても可哀想じゃん」
詩織はスマートフォンを持ったまま、膝の上に視線を落とした。
「……ノックするだけ?」
「でもドア越しだと起きないかもしれないじゃん。ちゃんと入って声かけてあげなよ」
「部屋に入るの」
「姉弟だから別にいいじゃん。詩織ん家、そういうのゆるそうだし」
「……ひより」
「うん?」
「また何か企んでる?」
ひよりは一瞬、表情を動かさなかった。それからにこりと笑った。
「企んでないよ。詩織のためを思って言ってるの。信じてよ親友でしょ」
詩織はしばらくひよりを見ていた。見ながら、どこかで納得してしまっている自分がいることに気づいていた。
起こしてあげるのは、確かに悪いことではない。朝ごはんができた頃に声をかけてあげるのは、同居している人間として自然なことかもしれない。
「……まあ、朝ごはんができたら声をかけるくらいなら」
「そうそう、それでいいじゃん」
ひよりは満足そうに頷いた。
詩織はスマートフォンを膝に置いて、天井を見た。
声をかける、だけなら、普通のことだ。
そう思った。
思ったのに、なぜか心臓が、一拍だけ余計に動いた。
翌朝のことだった。
六時四十分のアラームが鳴る少し前に、俺はうっすら目が覚めた。
完全に覚醒したわけではなかった。意識の半分がまだ眠りの底に沈んでいて、半分だけ浮上している、そういう状態だった。アラームまであと少しある。もう少し目を閉じていようと思った。
そのときに、廊下から足音がした。
かすかな、ゆっくりした足音。
近づいてきた。
扉の前で止まった。
小さなノックが三回。
「……悠馬さん」
声がした。
扉越しの、詩織の声だった。
俺は目を閉じたまま、「はい」と答えようとして、声が出なかった。喉が眠りで固まっていた。
扉が、静かに開いた。
廊下の光が部屋に差し込む気配がした。足音が、部屋の中に入ってきた。近づいてくる。俺の布団のすぐ横まで来て、止まった。
「悠馬さん」
もう一度呼んだ。今度は少し近い。
俺は目を開けようとして、まぶたが重かった。
しばらくの沈黙があった。
次の瞬間、布団が、わずかに持ち上がった。
持ち上がって、詩織が入ってきた。
布団の中に。
俺の隣に。
意識が、一瞬で覚醒した。
でも体が動かなかった。動かせなかった。正確には、動いてしまったら詩織が気づいて出ていってしまうような気がして、動けなかった。息を止めた。心臓が、ものすごい速さで動き始めていた。
詩織が、近い。
近い、という言葉では足りないくらい近い。布団の中で、二人分の体温が混ざって、狭い暗闇の中に詩織の息の音が聞こえた。
「……おはよう」
耳のすぐ横で、声がした。
低くて、柔らかくて、少しだけかすれた声。
俺の心臓が、一拍、止まった。
止まってから、爆発するように動き出した。
目を開けた。
布団の暗闇の中に、詩織の顔があった。こんなに近くで見たことがなかった。睫毛の一本一本が見えた。頬がわずかに上気しているのがわかった。目が合った。
詩織が、固まった。
俺も、固まった。
どちらも動かなかった。一秒か、二秒か、もっと長かったか。時間の感覚が完全に壊れていた。
詩織が先に動いた。
布団から、するりと出た。立ち上がって、スカートの裾を整えて、一度だけ俺の方を見た。その顔が、耳の先まで真っ赤だった。
「……朝ごはん、できたら呼びます」
それだけ言って、部屋を出た。
扉が、静かに閉まった。
廊下に出た詩織は、三歩進んで、壁に背中を預けた。
そのままずるずると、座り込んだ。
膝を抱えて、顔を両手で覆った。
手のひらが、熱かった。顔が熱かった。耳が熱かった。全部が熱かった。
何をやってるんだろう私は、と思った。
布団に入るつもりじゃなかった。ノックして名前を呼んで、それで起きなかったら少し声を大きくする、それだけのつもりだった。でも、ノックして声をかけて、返事がなくて、扉を開けて、布団の中で動かない悠馬を見て、起きているのか寝ているのかわからなくて。
わからないまま、気がついたら布団の中に入っていた。
ひよりは「声をかけてあげなよ」と言っただけで、布団に入れとは言っていない。
自分で入った。
何故入ったのか、自分でもよくわからなかった。ただ、そうするのが自然に思えた。入ってから数秒、悠馬の呼吸が聞こえて、温かくて、「おはよう」と言って、目が合って。
目が合った瞬間のことを思い出して、詩織はまた顔を覆い直した。
見てはいけないものを見た気がした。驚いた顔じゃなかった。驚きを通り越した、もっとこう、根っこのところが剥き出しになったような顔。あんな顔を見たのは初めてだった。
ひよりに電話しようとして、やめた。
あの人に話したら、絶対に面白がられる。
詩織は膝に顔を埋めて、しばらく廊下に座ったまま動かなかった。
朝ごはんを作らなければならない。頭ではわかっていた。でも足が言うことを聞かなかった。
もう少しだけ、と思った。
もう少しだけ、ここにいよう。
廊下はしずかで、部屋の中もしずかで、朝の光だけが窓から差し込んでいた。
扉が閉まってから、俺はしばらく動けなかった。
天井を見ていた。
正確には天井を見ていたが、何も見ていなかった。視線が天井に向いているというだけで、そこには詩織の顔があった。薄暗い布団の中で、近くで、目が合った、あの顔が。
心臓が、まだ速かった。
詩織が出ていってから一分は経っているはずなのに、まだ速かった。収まる気配がなかった。布団が、まだ温かかった。さっきまで詩織がいた側が、まだ体温を持っていた。
俺は布団を頭まで引っ張って、顔を覆った。
暗闇の中で、深呼吸した。
うまくできなかった。
もう一回した。
少しだけうまくできた。
アラームが鳴った。六時四十分だった。スマートフォンを手探りで探して止めた。
起き上がろうとして、足に力が入らなかった。
もう一度、深呼吸した。
よし、と声に出して言った。
声が、情けないくらいかすれていた。
朝ごはんの時間、二人は普通に向かい合って座った。
普通に、というのが難しかった。俺は「普通にする」ことに全力を注いだ。ご飯を食べて、味噌汁を飲んで、「うまいです」と言って、詩織が「ありがとうございます」と言った。
それだけだった。
それだけだったのに、詩織の耳がずっと赤かった。
俺の耳も、おそらく赤かった。
二人ともそれに触れなかった。触れる言葉が、どこにも見つからなかった。
食べ終わって、片づけをして、着替えて、昇降口を出て。
詩織の手が来た。
いつものタイミングで、いつものように。
俺は今日ばかりは、手が繋がれた瞬間に、呼吸を制御するのに三秒かかった。
詩織は前を向いて歩いていた。
俺も前を向いて歩いた。
繋いだ手が、今日はいつもより少しだけ、力が入っている気がした。
詩織の方なのか、俺の方なのか、どちらかからなのか、両方からなのか。
わからなかった。
ただ、いつもより温かかった。
それだけは、わかった。




