第四話 屋上の、手作り弁当の、途方もない話
手を繋いで登校するのが、いつの間にか習慣になっていた。
二回目は翌朝だった。
昇降口を出て、歩き始めて三分ほどで、詩織の手が来た。前回と同じように、何も言わずに。何でもないことのように。俺は今回こそ平静を保つつもりでいたのだが、指が絡んだ瞬間にやっぱり脳内で何かが爆発した。爆発の規模は前回と同じだった。慣れというのは、こういう場合には機能しないらしかった。
三回目は、その翌日だった。
今度は俺が先に手を出そうかと一瞬考えて、やめた。詩織が出してくるのを待った。待ちながら「待っている自分」に気づいて、それがまた別の意味で心臓に悪かった。
今朝、四回目。
昇降口を出て、少し歩いて、詩織の手が来た。今日はいつもより少し早いタイミングだった。指が絡む感触に、もう驚かなくなった。驚かなくなった、というのは、心臓が跳ねなくなったわけではなく、顔に出さない精度が上がった、ということだ。
進歩とは何か、という問いに対する俺の答えが、日々更新されていた。
「今日、晩ごはん何がいいですか」
詩織が、前を向いたまま言った。
「なんでも。詩織さんが作るものは全部うまいので」
「そういう答えは困ります」
「じゃあ、煮物があるとうれしいです」
「わかりました」
短い会話が終わって、また沈黙が続いた。
手は、繋いだままだった。
俺は前を見ながら、繋いだ手のひらの温度を、できるだけ意識しないようにした。意識しないようにすると、余計に意識した。人間の注意というのは、向けまいとした方向にこそ向くようにできているらしい。厄介な仕組みだと思った。
昼休みのことだった。
またひよりが来た。
今度は教室ではなく、廊下だった。俺がトイレから戻る途中に、角を曲がったところで鉢合わせた。向こうも俺に気づいて、足を止めた。
「あ、ゆーくん」
「藤田さん」
「ひよりでいいよ。なんか他人行儀で嫌だ」
「……ひより、さん」
「さんもいらない」
なし崩しに呼び捨てにされた。この人はこういう人らしい、と三日かけて理解してきた。さらりと距離を詰めてくる。詩織とは正反対のタイプに見えて、でもたぶん、根っこのところで何かが通じているんだろうと思う。
「手、繋いで歩いてるじゃん」
ひよりが言った。
俺は廊下の向こうを一瞬見た。誰かに聞かれていないか確認するような動作だった。自分でやっておいて、少し恥ずかしかった。
「……まあ、そうですね」
「詩織がさ、素直に実行するとは思ってなかった。いやすると思ってたけど、こんな早いとは」
なにか、この人が引き起こしたのだろう、という予感があった。詩織が急に手を繋いできた理由が、ひよりの「姉弟は繋ぐのが普通」という言葉にあるのだろう、ということも。でも俺には確認する手段がなかった。
「詩織、学校でゆーくんと話したりしてる?」
「……廊下でたまに、少しくらいは」
「そっかそっか」
ひよりはにやりとした。そのにやりが気になったが、追及する勇気がなかった。
「じゃあ、昼ごはんは?」
「昼ごはん?」
「一緒に食べたりしてる?」
俺は首を横に振った。
「そっか」
ひよりはまた「そっか」と言って、何でもない顔で俺の横を通り過ぎた。
「じゃあね、ゆーくん」
背中に声をかけられた。振り返ると、ひよりはもう歩き出しながら、こちらへ手を振っていた。
何かが、始まる気がした。
その予感だけがあって、俺にはどうすることもできなかった。
同じ昼休み、詩織の教室の前で。
ひよりは詩織の机の横に立って、小声で言った。
「詩織、今日のお昼、ゆーくんと食べた?」
「……食べてない」
「え、なんで?」
詩織が、ひよりを見た。
「なんでって、それは別に……」
「姉弟なのに?」
詩織は少し黙った。
「姉弟は、昼ごはんも一緒に食べるの?」
「食べるよ。仲のいい姉弟は特に。むしろ一緒に食べないと逆に気まずくなるよ、職場でも家でもあんまり話せないんだから」
ひよりは相変わらず澄ました顔で言った。
「しかもさ、詩織の手料理、ゆーくんめちゃくちゃ喜んでたよ。あ、私には言ってなかったか。でも絶対喜ぶって。昨日も手作り晩ごはん食べたんでしょ?」
「……うん」
「じゃあ弁当も作ってあげなよ。屋上、空いてるよ今日。ゆーくんの教室、2-Bじゃん。持ってってあげなよ」
詩織はしばらく、手元のお弁当箱を見た。
今日の自分の分は、もう作ってある。
悠馬の分は、今朝は作っていなかった。
「……もう一人分は」
「コンビニの惣菜でいいじゃん。詩織が作ったご飯と味噌汁があれば十分だって。あ、でも卵焼きとウインナーくらいは足してあげなよ。すぐできるでしょ」
詩織は少しの間また考えて、それから立ち上がった。
「家庭科室、今日空いてたっけ」
「空いてた。さっき確認した」
ひよりの答えが早すぎた。詩織は横目でひよりを見た。
「……ひより」
「うん?」
「今日、全部決めてたでしょ」
ひよりは一瞬だけ目を逸らした。それからすぐに戻してきて、満面の笑みで言った。
「詩織のためを思って行動したの。私は詩織の親友だもん」
詩織は何も言わなかった。ため息をついて、お弁当箱を手に取った。
顔が、少し赤かった。
二B教室の扉が、昼休みが始まって十分ほど経ったところで、控えめにノックされた。
俺は窓際で弁当を食おうとしていた。今日の弁当は自分で作った。といっても詩織が朝のうちに炊いておいてくれたご飯をタッパーに詰めただけで、おかずはコンビニで買ったやつだ。
扉の方を見た。
詩織が立っていた。
両手に、弁当箱を持っていた。
俺は口に入れかけていたおにぎりを静かに膝に戻した。教室の中にいた数人のクラスメイトが、ちらりとこちらを見た。
詩織は教室の入り口から動かずに、俺の方を見た。
「屋上、行きませんか」
静かな声だった。でも教室に響いた。
俺は立ち上がった。
なんで立ち上がったのか自分でもよくわからなかったが、体が勝手に動いた。コンビニの袋と買ったばかりのタッパーを持って、詩織の方へ歩いた。
後ろから、クラスメイトの誰かが「おい」と言った気がした。気のせいだと思うことにした。
屋上は静かだった。
春と夏の間の風が吹いていて、フェンスの向こうに校庭の緑が見えた。他に人はいなかった。詩織はフェンスに近い方の壁際に座って、弁当箱を膝に開いた。俺もその隣に座った。
詩織が、もう一つの弁当箱を俺に差し出した。
「あの、これ、急いで作ったので、大したものじゃないんですけど」
蓋を開けると、卵焼きとウインナーと、小さなタコさんウインナーが並んでいた。それからご飯と小さな味噌汁が保温ジャーに入っていた。
「……俺の分まで作ってくれたんですか」
「ひよりに、姉弟は昼も一緒に食べるって言われたので」
詩織は前を向いたまま言った。耳が、屋上の風の中でも赤いのが見えた。
俺は弁当箱を受け取って、箸を取った。
卵焼きを一口食べた。
甘かった。いつもの、あの甘さだった。
「……うまいです」
「ありがとうございます」
また短い会話が終わって、二人で黙って食べた。
屋上の沈黙は、教室の沈黙とも家の沈黙とも少し違った。風の音があって、校庭から体育の声が遠く聞こえて、その中に二人分の食器の音だけがあった。広い場所なのに、なんとなく近い感じがした。隣の距離が、いつもより少しだけ縮まっているような気がした。
たぶん、気のせいではなかった。
俺はご飯を食べながら、詩織の横顔を視界の端で確認した。前を向いて、静かに食べていた。表情は穏やかで、風に髪が少し揺れていた。
きれいだな、と思った。
思ってから、すぐに前を向いた。
ご飯の味に集中しようとした。うまかったので、集中はできた。
廊下の曲がり角から、ひよりがそっと屋上のドアを見ていた。
二人が並んで出てきた瞬間、ひよりは壁に背を預けて、天井を見た。
笑いがこらえきれなかった。
悠馬の顔が、廊下を歩いてくる間ずっとどこかぼんやりしていた。詩織の顔は前を向いていたが、耳が赤かった。二人とも、お互いの方を見ていなかった。見ていないくせに、歩くペースがぴったり合っていた。
ひよりは廊下の天井を見上げたまま、静かに息を吐いた。
笑いがひとしきり落ち着いてから、もう少し真剣な気持ちになった。
詩織が、男の子と二人で屋上でお弁当を食べる日が来るとは思っていなかった。どれだけ仕組んでも、詩織は断るか、もしくは実行できないだろうと思っていた。それが当たり前だと思っていた。
でも詩織は行った。
弁当まで作って、自分から声をかけて、行った。
ひよりは目を伏せた。
詩織のことは、子供の頃からずっと知っている。何でもできるくせに、肝心なところでは自分から動けない。ずっとそうだった。誰に対しても少しだけ遠い場所にいて、親友の自分にだけは近かった。
それがあの男の子の前では、少しずつ変わっている。
ひよりが仕組んでいる部分もある。でも、仕組んだだけでは動かない。詩織が、自分の意志で動いている部分がある。
それが、嬉しかった。
素直に、嬉しかった。
ひよりは壁から背を離して、教室の方へ歩き出した。自分のお弁当を食べに行かなければならない。
二人のことは、もう少し遠くから見ていようと思った。
午後の授業が始まって、俺は机に頬杖をついて黒板を見ていた。
頭の中に、屋上のことが残っていた。
風の音と、遠い校庭の声と、詩織が弁当箱の蓋を閉めるときの小さな音と。食べ終わった後も少しの間そこにいて、結局ほとんど何も話さないまま、でも誰も「行こう」と言わなかった。どちらかが立ち上がるまで、そこにいた。
立ち上がったのは詩織だった。
「戻りましょうか」と言って、弁当箱を持って立ち上がった。俺も立ち上がって、二人で屋上を出た。
別々の教室に戻る前に、廊下の分岐点で詩織が言った。
「また、よかったら」
またよかったら、だ。
それだけ言って、詩織は自分の教室の方へ歩いていった。
俺はその背中を見送って、自分の教室の方へ歩いた。
今、黒板を見ながら、その「また、よかったら」を何度か頭の中で再生していた。
声のトーンを、思い出していた。
普段の詩織の声と同じだったか。少し違ったか。あの瞬間、詩織の耳が赤かったのは、屋上の風に当たっていたからか、それとも別の何かか。
判断できなかった。
判断できないから、考えるのをやめようとした。
やめられなかった。
先生の声が教室に響いている中で、俺は静かに、どうしようもなく、あの屋上の空気を思い返していた。
帰り道、詩織の手が来た。
いつものタイミングで、いつものように。
指が絡む感触が、今日は少しだけ違う気がした。
違う、というのは、温度が、とか、力加減が、とかではない。ただ、繋いだ手の向こうに「また、よかったら」と言った人間がいる、という事実の重さが、今日は少しだけ違う気がした。
詩織は前を向いて歩いていた。
俺も前を向いて歩いた。
夕方の住宅街を、二人で歩いた。
会話はなかった。でも、悪くなかった。
家まで二十分。今日はその二十分が、少しだけ短く感じた。
夜、布団に入って天井を見ていたら、スマートフォンが震えた。
ひよりからだった。
メッセージが一件。
「ゆーくん、詩織のこと、ちゃんと見ててあげてね」
それだけだった。
俺はしばらく画面を見て、返信を打とうとして、何を書けばいいかわからなくて、スマートフォンを枕の横に置いた。
天井を見た。
見知らぬ天井にも、少しずつ慣れてきていた。
シミは相変わらずなかったが、右の端に、ほんの小さなひびが一本あることを、今夜初めて見つけた。
ひびを数えた。一本だけだった。
それでもなんとなく、前の部屋のシミのことを思い出さなかった今夜は、昨夜より少し眠れる気がした。




